永平寺から毎月発行されている時報『傘松(さんしょう)』の中にある一照さんの連載記事、『「只管打坐」雑考』に一口コメントをつけてお届けします。

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前回は五蓋にとらわれたときの状態、そしてそれが取り除かれた時の状態に関して釈尊が用いた二つのたとえを紹介して、五蓋のそれぞれの特徴をまず大まかなイメージとして理解してもらうことを試みた。

これからはもう少し踏み込んで、五蓋それぞれの内実やそれとどう取り組んで行ったらよいのかといった問題を探っていきたいと思う。

前にも述べたように、五蓋はわれわれが普通に「煩悩」と呼んでいる「身心を悩ませ乱して、寂静ならしめない諸種の心の作用・性質・状態」の異名の一つである。

仏教は長年にわたってこうした煩悩の分析・解明に力を注いできたから、煩悩には実に様々な異名がつけられている。

その異名には惑、随 眠(ずいめん)、纏(てん)、結、軛(やく)、取、縛、漏、暴流(ぼる)、...など多数あって、蓋はその中の一つである。

漢字の意味を見ればわかるように、煩悩の持つ属性に焦点を当ててそのようなさまざまの名前が考え出されてきたのである。

たとえば、随眠は「煩悩は有情(生きもの)に随逐する(随って 働く)から随といい、その働きのありようは微細にして知りがたいこと、睡眠中の如くであるから眠という」(横山絋一『唯識仏教辞典』春秋社より)。

纏(まとう)は煩悩が心をまとい、おおうところから、結は煩悩が心を束縛し、苦と結合し、心を毒するから、軛はくびきのことで煩悩からの解脱をさまたげるところから、暴流は煩悩が荒れ狂う河の流れのようだから、そういう名がつけられているのである。 

そして、煩悩のとらえ方の相違に対応して、三惑(貪・瞋・痴)、七随眠、八(十)纏、四暴流、四取...というように煩悩の種類の数も異なっている。

蓋というとらえ方では五つに分類されるので「五蓋」となるわけである。

われわれはよく日常の会話のなかで、「わたしはなかなか煩悩が捨てられなくて困っています」とか「かれは煩悩だらけの人間だから、つきあわないほうがいい」などと言い、あたかも煩悩を個人の「持ち物」ででもあるかのように考えている。

煩悩は、その気になれば捨てることができたり、人によってはそれを量的にたくさん持っているかのようなものとしてイメージされている。

また、そういうものをたくさん「持っている」のは、どこまでもその人個人の「失敗」だとか「責任」であるかのようにも思われている。

だから、「修行」というのはそれを「減らしたり」、「ゼロにしたり」するために行われるのだと理解されている。

しかし、煩悩は本当にそういう個人の所有物的なあり方をしているのだろうか?

煩悩についての常識的・通俗的な理解やイメージを超えて、仏教ではほんとうのところどのよう に考えられているのかを改めて見直してみる必要がある。

日本は長い仏教の歴史を誇る国であるが、それだけに多くの仏教起源の言葉が日常語として定着し普通の会話の中で当たり前に使われているという状況がある。

そして本来の意味からはかなりかけ離れた、誤解、歪曲といってもいいような理解の方がかえって世間で通用している場合も多い。

おそらく僧侶ですらそれと知らずに、日常的に理解されているほうの意味で多くの仏教語を理解しているのではないだろうか?

仏教がある意味で常識批判、常識の解体・脱構築(ディコンストラクション)を目指しているとすれば、これはゆゆしき問題として自覚しておかなければなるまい。

「煩悩」という仏教の最重要語の一つに関しても、そういうことが起きているとわたしは考えている。

 さてそれはともかく、『宝慶記』の中にある道元禅師と如浄禅師の坐禅をめぐるある問答で、煩悩が五蓋として語られていたという最初の地点に話をもどそう。

坐禅という行においては、五蓋としての煩悩が坐禅中にどのような形で立ち上がってきてもそれに対して、道徳的観点とか世間の価値基準に照らして、それが当人の「失敗」とか「責任」、「落ち度」、 「汚点」、「ミス」、「恥」...であるというような価値づけをしないということをまず押さえておかなければならない。

そういう価値づけに基づいて五蓋として現れてくる煩悩を抑圧したり、それに対して怒りをもって対処したり、そのことで自分を責めたりしない、ということが大切なポイントなのである。

道元禅師の『普勧坐禅儀』にも「不思善悪」、「莫管是非」という言葉が出ている。

坐禅では、煩悩に惑溺するのでもなく、またそれを抑圧するのでもない、煩悩との中道的な出会い方を見つけていかなければならない。

それは「煩悩はただ片付ければそれでいいんだ」という短兵急な態度とはまったく異なっている。

何かの手段を使って邪魔な煩悩をさっさと始末しようとするのではなく、煩悩に きちんと向き合って、細やかにそれについて学び、深く理解しようという態度なのである。

がん細胞を外科的手術によって物理的に切除し取り除くような感じで、煩悩を単純に悪いものと決めつけて自分の内部から取り除くことによってそれから自由になろうとするのは仏教的な態度とは言えない。

わたしは釈尊が煩悩に対してそれまでの宗教的伝統とはまったく違うパラダイムでアプローチしたところに仏教の革新性があると考えている。

それは煩悩を敵に回して攻撃して退治しようとするのでもなく、また煩悩に背を向けてそれから逃げようとするのでもなく、立ち止まって落ち着いて「煩悩とはいかなるものなのか?」と煩悩そのものから辛抱強く学ぼうとした、ということだ。

そこには煩悩に対する 嫌悪ではなく敬意の念すらあったのではないだろうか?

闘争あるいは逃走という解決法ではなく、煩悩を深く理解することによってそれを乗り越える道を見出したのが釈尊であったのだ。 

 

『傘松』、『「只管打坐」雑考』より一部抜粋