【坐禅講義23】第ニ講:打坐としての坐禅①
藤田 一照 藤田 一照
2017/08/09 14:39

【坐禅講義23】第ニ講:打坐としての坐禅①

道元禅師の著作の中では、しばしば坐禅という語に換えて「結跏趺坐」、「正身端坐」、「只管打坐」、「打坐」、「兀坐」といった言葉が使われています。これらの言葉のなかには坐禅における心理的な側面に関連する文字が一つもなく、したがって瞑想的な色彩は皆無といってもいい用語です。どの言葉も煮詰めていけば最後にはたった一語の動詞、「坐」という字だけが残ります。ですから、これらの言葉に置き換えられるような坐禅は、心理面に重点を置いた坐禅、つまりまずからだをある姿勢で坐らせて、その坐のなかで、坐ることとは別にこころをあるやり方で統御していこうとするいわゆる「瞑想的な」坐禅ではなく、この生身のからだをもってする単純素朴な「坐」という行為そのものを深く探求していく身心一如的営みとしての坐禅だということです。

漢字二字からなる「坐禅」という言葉の二字目にある、ある特定の精神状態を指す「禅(サンスクリット語のディヤーナ、つまり禅那、禅定 こころを一処に留めて散乱させないこと)」の方を重視するのが瞑想的な坐禅であるのに対して(あえて文字のサイズで表すと「坐禅」ということになります)、只管打坐の坐禅の場合は、一字目にある、身体的行為を指す「坐」の方に重点を置くのです(「坐禅」)。さらに言えば、道元禅師にとっては坐禅は「坐がそのまま禅、つまり坐即禅」なのですから、もうさっぱりと「禅」という余計な文字をはずしてしまって「坐」だけにしてしまった方がはるかにふさわしい表現になります。その方が坐禅は「坐、それから禅」、あるいは「坐と禅」であるような他のタイプの坐禅とのいらぬ誤解や混同を招く可能性が少なくなるからです。

特にこの「打坐」という表現ですが、「打坐」の「打」という漢字は何かを「打つ」、英語の動詞で言うなら「ヒット」にあたる実質的な意味内容をもった字ではなく、中国語の助辞といわれる用法です。これは、動詞の前に置く接頭語としてそのすぐ後にくる動作や行為を示す動詞の意味を強める働きをします。たとえば「打聴(きく)」、「打睡(居眠りする)」というように使います。ですから、日本語だと、たとえば「倒す」を強めるのに「ぶっ倒す」、「殴る」を強めるのに「ぶん殴る」と言いますね。「ぶっ続き」とか「ぶっちぎり」とか。あの「ぶっ」とか「ぶん」に相当するものだと理解すればいいと思います。とすると、打坐をあえて日本語で言えば「ぶっ坐る」あるいは「どん坐る」ということになるでしょうか。

このように「打坐」という表現は、坐るというからだで行なう行為そのものを端的に表していて、それ以下でもそれ以上でもない、ということを直截に表しています。わたしとしては本当はこの講義を通して、坐禅という言葉ではなく打坐という言葉を一貫して使いたかったのですが、一般にあまりなじみのない言葉なので、残念ながらそれは見合わせたのです。しかしこの講義で言う坐禅はまさに打坐というのがふさわしい、そういう坐禅なのです。

藤田一照著「現代坐禅講義」より一部抜粋


《藤田一照 一口コメント》
「坐禅は瞑想ではない」という言い方は、多くの人には「え、違うの!?」という反応を引き起こしそうです。しかし、坐禅のユニークさを明確にするためには、瞑想は、あくまでも人間がある目的のために考え出した技法、テクニック、メソッドというカテゴリーに属するものとし、坐禅はそのような方法、技法というアプローチに完全に行き詰ったところから、全く新たな局面を開くものとして出てきたものとして、両者をはっきり区別した方が良いと考えています。瞑想は方法、坐禅は方法を捨てたものということです。それは、前者がダメで、後者がいいという価値判断に基づく単純な二者択一の話ではなく、パラダイムの区別という話です。区別した上で、瞑想、坐禅、それぞれがどのような世界を開くのかを、論じてみたいのです。

この引用部分で焦点を当てているのは、瞑想では坐ることではなくて、身で坐った上で心で何をするか、心がどういう状態になるかということに重点が置かれているのに対し、坐禅では坐るという身をもって行う営みの方に重点が置かれているということです。「打坐」という言い方にそれが如実に現れていると思うからです。ということは、坐禅の値打ちというのは、心に何が起こったかというところにではなく、何はともあれ一定の時間、坐蒲の上で坐ったという、その事実の方にあることになります。結果ではなく、そのプロセスに力点があるのです。

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