(前回の講義)

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今回は「万別千差(まんべつせんしゃ)と謂うと雖(いえど)も、祇管(しかん)に参禅弁道すべし」のところについてお話しします。

万別千差というのは仏道修行には極めて多様な道があることを指します。

「八万四千の法門」という表現がありますが、84000という具体的な数のことを言いたいわけではなく、そのくらい多数の仏道への入り口があるということです。

こちら側の準備状態次第で、日常に起きるあらゆる出来事が、法への入り口になりえるのです。

84000というのはもしかしたら、われわれの煩悩の現れ方の数なのかもしれません。

そして、そのどれもが法への門になる可能性を持っているのですが、いかんせん、われわれはそれを見のがし続けているわけです。

あるいは84000というのはわれわれの根機の種類と受け取ってもいいかもしれません。

根機というのは、修行するための才能、法を受け取るための器の質のことです。

ブッダは相手の根機に応じて柔軟に法を説いたと言われていて、その結果、それだけの数の教えや実践が出来上がったということです。

この後に、「そうではあるが」と逆接の「雖」という字が入り、いかに修行の道が千差万別であっても、共通してひたすら坐禅弁道に身心を投入しなければならないというわけです。  

いちおう伝統的にな読み方をすればこういう意味に取ることができますが、この文章のすぐ前では、これまでの祖師たちのことがずっと書かれていますので、ここのその文脈に属すると理解すれば、千差万別を諸仏諸祖それぞれに到達した境地や指導の仕方に違いがあるという意味にとることもできるでしょう。

たとえそういう違いはあっても、みんな坐禅に精進したということでは共通していたという読み方もできるでしょう。

その場合は「万別千差といえども、祇管に参禅したまへり」と読み下す必要があります。

私としてはこの方が真意に近いのではないかと思います。

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