永平寺から毎月発行されている時報『傘松(さんしょう)』の中にある一照さんの連載記事、『「只管打坐」雑考』に一口コメントをつけてお届けします。

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しかし、である。

もしここに、われわれのすべての思考には「欲望や瞋りや癡さ」が伴っているから、どんな思考であってもそれは「悪しき、不善な思い」なのだという粗雑で全体主義的な 考えが入り込んでくると、あらゆる思いは思いである限りは十把一絡(じっぱひとから)げに排除される べきだという結論にいたってしまうだろう。

実際のところ、釈尊自身はそのようなことを少しも言っていないにもかかわらず、そういう先入見を通して経典の文言を理解してしまうというようなことがしばしば起きている。

辞書によると、santhanaというパーリ語のもともとの意味は「休憩所、会合場所」であるという。

だとすれば、この経典の題名であるvitakka・santhanaは文字通りに訳せば「思考の休憩所」のはずである。

だから、もう一つの英訳題The Relaxation of Thoughtsの方がこの意に近いということになる。

removal(除去・撤去)と訳したのでは本来の趣旨からはずれてしまう。

removalとrelaxation(くつろぎ)とでは「景色」がまったく違ったものになる。

もっとも、思考がまったく存在しない「純粋」な心になることを遮二無二目指している人たち(たとえば、前回の論考で触れた神秀や臥輪禅師のような人)にとっては、釈尊が「休憩所で思考と出会う」、「くつろぎのなかで思考に出会う」などということについてまじめに語っている場面を想像することはできないだろう。

しかし、この題名を素直に読めば、釈尊はまさにそういうことを説いていると理解するべきなのではあるまいか。

つまり、あらゆる種類の思考を憩わせて(無くしてしまおうとするのではなく)、そういう条件のもとで、浮かんでくる「悪しき、不善の思い」に対してどう対処することができるかということを説いているのであって、沸き起こってくるあらゆる思考とどう戦い、どう打ち勝つべきかを語っているのではないのだ。

この経典のなかで釈尊は五つの具体的対処法を説いている。

「比丘がある主題に出会って、意を注いでいるときに」という表現やうまく対処できたときには「内部に心が確立し、定められ、統一され、集中される」という表現から判断すれば、この説法はあきらかにヴィパッサナー(観)ではなくシャマタ(止)の行法を行っている修行者たちに向かって説かれたもののように見える。

しかし、わたしはこの経典の中に、われわれ坐禅を修行している者にとっても、正身端坐の努力を挫(くじ)くような思いや イメージが沸き起こってきたときにどうするのかという問題に対して有益な指針を見つけることができるのではないかと考えて読んでいるのである。

そのためにも、なによりもまず、この経典の題の意味をremovalではなくrelaxationと理解して読んでいかなければならない。

この経典では、まず、たとえば呼吸に注意を注ごうとしている修行者にしつこく怒りの思いが付きまとってそれを妨げているような場合は、いったん呼吸に注意を向けるのを保留して、別の善なる思い、たとえば慈悲の思いに注意を向けるようにするという対処法が説かれる。

このやり方については「ちょうど、熟練した大工やその見習いが、小さな楔(くさび)で大きな楔を取り出して、除きどけるようなものである」という比喩によって説明されている。

そして、これによって「悪しき、不善な思い」が手放され鎮まったら再び呼吸に注意を向けるのである。

この経典の文脈では、不善な思いに対抗するような「別の善なる思い」を具体的に何にするか、その選択は修行者自身かあるいは指導者によって意図的に、あるいは方法的に決められるのであろうと推測されるが、われわれの坐禅ではそういう人為的な介入はしない。

不善な思いが起きてきたらすぐに注意をこちらで意識的に決めた別な善なる思いに強いて向けかえるのではなく、心のプロセスが別の善なる思いを自然と生起させて心が鎮まってくるまで、その不善な思いと辛抱強くつきあっていくのである。

不善な思いも無常の流れの中にある以上、いつまでも存在し続けることは本来不可能なのだ。

道元禅師は「煩悩は煩悩それ自身のうちに自分を乗り越える契機を宿している」という意味のことを言っているが、それを借りて言えば「不善な思いはそれ自身のなかにそれを乗り越えていく力を有している。」

そのプロセスを妨げさえしなければ、不善な思いという一時的な状態はいつしかよりバランスのとれた状態へと遷移していく。

海辺で夢中になって砂の城を作って遊んでいた子供がそれに飽きてくると何の未練もなくそれを後にして走り去っていくようなものだ。

そういうことが起こることを忍耐強く見守りながら許していく、そういう気の長い取り組みを可能にしてくれるのが正身端坐という型だったのである。

『傘松』、『「只管打坐」雑考』より一部抜粋