永平寺から毎月発行されている時報『傘松(さんしょう)』の中にある一照さんの連載記事、『「只管打坐」雑考』に一口コメントをつけてお届けします。

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三十年以上前のわたしの円覚寺での初めての坐禅は、どれもこれもまさに「我が心鏡にうつるものならばさぞや姿の醜(みにく)くかるらん」という歌がぴったりだった。

とても人には言えないようなあれやこれやの妄想が次から次へと勝手に(?)浮かんできて、どうにも手に負えないありさまだった。

自分で自分が情けなくなった。

「心を鎮めるために坐禅しに来たはずなのに、坐禅のせいでますます煩悩に火がついているみたいではないか。坐禅がおとなしく隠れていた煩悩を逆にあぶりだしているようじゃないか。こんなことは即刻やめた方がいい。やめろ。やめろ」という内なる声ががんがん耳に響いてくる。

自分がこういう本性の人間だったのかと思い知らされて、われながらひどく落ち込まされたものであった。

しかし、この手痛い体験こそがわたしが坐禅に「ハマル」きっかけになったことは間違いない。

おそらくあのときの坐禅がうまくいっていたら、つまり自分が思った通りの、理想通りの「いい」坐禅ができていたら、きっと今ごろ坐禅をしていなかっただろう。

あのさんざんな一週間のおかげで、「こんな煩悩まみれの自分だったのだから、これからは坐禅をやっていかなかったらきっと一生を台無しにしてしまうことになりかねないぞ、『浄玻璃の鏡』である坐禅に『にらまれ、叱られ、礙えられ、引きずられて』いかないとおれみたいな人間は駄目だろうな」と心底思ったからである。

坐禅をしはじめのころは、まじめに坐禅をしていたら、その功徳でそういう煩悩もだんだん少なくなっていって、しまいには坐禅中にも煩悩が起こらなくなるのかと思っていた。

しかし、のちに澤木興道 老師の名言集『禅に聞け』(大法輪閣)を読んでいたら、この点について思いがけない言葉がいくつも 書かれていた。 

◎「坐禅をすると妄念が起こります」と言うてくる人がいる。―そうじゃない。坐禅すればこそ妄念が おこっているのがよくわかるのだ。妄念ぐるみのくせにダンスでもしておれば、それが全然わからない でいるまでじゃ。坐禅している時には蚊一匹とんできても「やっ、食いついたな」とよくわかるが、ダ ンスしておる時には、ノミがキンタマにくいついておってもわからず、夢中になって踊っておるやない か。 

◎坐禅しておると、よう妄念がおこりますと言うてくる人があるが、妄念がおこるということがわかるのは、波風がおさまりノボセが下がったからである。 

◎坐禅しておる時、いろいろな思いが浮かび上がってきて「これでよいのかしらん」と思う。しかし「こ れでよいのかしらん」と思うのは、坐禅が自性清浄で、この自性清浄ににらまれればこそなのであって、 もしわれわれ酒飲んでステテコ踊りしておったら、そんなことはわからないでおる。 

◎生きているかぎりは、いろいろな心理作用がおこるのはあたりまえじゃ。

◎妄念を気にするのは、「凡夫」が気にするだけである。 

 

こういうことを言う澤木老師によれば、どうやら妄念と坐禅は同次元上で対立し相互に排除するような関係ではないようだ。

坐禅は妄念が起こらないようにようにする、あるいは起きている妄念を消すための努力ではなく、自性清浄な坐禅を背景にして初めて妄念が妄念として自覚される。

そのことこそが坐禅の功徳だというのである。

それに妄念があっても坐禅の方は少しもそれを気にしないし、まったく困らないのだとも言われている。

妄念を「妄念」と呼んで、坐禅にとっての困り者扱いするのは「凡夫」の側の話であって、坐禅の側からすればどのような妄念であっても「不思量底(不思量にして生じ 不思量にして滅する)」あるいは「大空無雲山下雷鳴(いかなる暴風雨であろうとも虚空は少しも傷つかない)」のものとしてあるので、妄念によってその光明はすこしも暗まされないのである。



『傘松』、『「只管打坐」雑考』より一部抜粋