(前回の講義)

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今回カバーするのは「直饒(たと)い会(え)に誇り悟(ご)に豊かにして瞥地(べっち)の智通(ちつう)を獲(え)、道(どう)を得(え)、心(しん)を明らめて衝天(しょうて今回、お話しするのは下記の一節です。

「矧(いわ)んや、彼(か)の祇薗(ぎおん)の生知(しょうち)たる、端坐六年の蹤跡(しょうせき)見つべし。少林の心印を伝(つた)ふる、面壁九歳(めんぺきくさい)の声名(しょうみょう)、尚ほ聞こゆ。」


前回のところで、少々奇特な宗教的体験や洞察を得たとしても、それは仏法の入り口程度のところにすぎず、そんなところに停滞していてはいけないのだということが訓戒として述べられていました。

それに続いて、今回は、われわれ坐禅を行ずるものにとって大手本としなければいけない、釈尊と達磨の例をあげて、志を高く持つことを解いています。

古来、「先聖の高範の挙示」と言われている部分です。


祇園は釈尊、少林は達磨を指すことは言うまでもありません。

二人ともこれから改めて悟りを開こうとして坐禅をつとめたのではなく、本有の仏心を坐禅に表わして坐ったのだということが強調されています。

坐禅はよく誤解されているようにこれからぼちぼち悟るための手段ではないことは、生知(生まれながらに仏知見を備えた人)である釈尊やすでに心印を師から伝えられた達磨が生涯坐り続けられたという蹤跡(あとかた)をよく見れば明らかだと、われわれの注意を促しているのです。