永平寺から毎月発行されている時報『傘松(さんしょう)』の中にある一照さんの連載記事、『「只管打坐」雑考』に一口コメントをつけてお届けします。

----------------------------------------------------------

坐禅は妄念を拒否するのではない。

妄念を拒否しようとすることもまた妄念であるから拒否しようがないのだ。

坐禅は虚空を行ずることでなければならない。

もしそうだとすれば、如浄禅師が道元禅師に言った「坐禅は五蓋六蓋を離れる(あるいは、除く)」という表現も、からだから癌細胞を外科手術によって切除するような意味で、坐禅から何かの手段によって五蓋を切り離す、取り除くというような単純な意味ではないことになる。

ではそうではないとしたら、この言葉をどのように理解するべきなのだろうか?

そのようではない意味での「離れる」とか「除く」ということの実際はどのようなものなのだろうか?

「煩悩即菩提」とか「生死即涅槃」、「妄想を除かず真を求めず。無明の実性即仏性、幻化の空身即法身」

(『証道歌』)を標榜する禅や、「不断煩悩得涅槃(煩悩を断ぜずして涅槃を得る)」とか「障り滅れども去なる所ろ無し、冰り解て水と為るが如し、冰多れば水多し、障り多れば徳多し」と言う浄土真宗が代表する大乗仏教においては、蓋(煩悩)についての考え方やそれへの取り組み方が常識的通念とはだいぶ異なっていることを見逃してはならない。

この重要な問題はあとでまた論ずることにして、ここでは如浄禅師が言った五蓋、無明蓋とはどのようなものかをまず詳しく見てみることにしよう。

通仏教においては五蓋とは貪欲蓋、瞋恚蓋、惛沈睡眠蓋、掉挙悪作蓋、疑蓋の五つとされている。

如浄禅師はこれに無明蓋を加えて六蓋という言い方をしており、しかも「ただ無明の蓋を除けば、五蓋が除かれたことになり、五蓋を離れても、無明蓋を離れることができなければ、それはまだ仏祖の修証とは言えない」と無明蓋に特段の重要性を置いている。

わたしは寡聞にして他にこういう説き方をしている人を知らないので(道元禅師もそうだったのであるが)、これは如浄禅師独特の解釈だろうと考えている。

このような五蓋の具体的内容を一つずつ詳細に検討していくまえに、五蓋が心にどのようなインパクトを与えるかについて、パーリ仏典の中で釈尊が二つの喩を用いて巧みに説明しているところを見ておこう。

五蓋の理解にとって大きな参考になるだろう。

まず第一の喩では、五蓋がいかにわれわれの知覚を覆い隠すかについて、像を水面に映す澄んだ池の例を持ち出している。

貪欲蓋(むさぼり)が心に在るときは、池が色のついた染料でいっぱいになっているようなものだと言われている。

つまり貪欲蓋がわれわれの知覚を色づけてしまうのである。

瞋恚蓋(いかり)が在る時には、池の水が煮たっているようなものだと言われている。

だから映る像をはっきりと見ることができなくなるのだ。

怒りでヒートアップしているとき、われわれの心は「大しけ」の状態にある。

惛沈睡眠蓋(心の沈み)が在る時には、池に成長し過ぎた藻が繁茂しているようなものだと言われている。

心の中にわれわれがものをはっきりと見ることを妨げる停滞やよどみがあるのだ。

掉挙悪作蓋(心の浮(うわ)つき)は風によって池の水がかき回されているようなものだと言われている。

心がかき立てられて七転八倒しているのである。

疑蓋(うたがい)は泥水のようなものだと言われている。

底を見ることができず、すべてが不明瞭になっているのだ。 

第二の喩では、五蓋にとらわれている時の感情的なあり方が説明され、それから解放された状態がどの様な感じがするかが述べられている。

まず貪欲蓋にとらわれているときの感情の状態は、借金をして商売を始めたときのようなもので、貪欲蓋から解放された時の状態は、商売が成功して借金をすべて返すことができ、さらに残ったお金で妻を養うこともできて、喜び、うれしさでいっぱいになっている時のことにたとえられている。

瞋恚蓋にとらわれている時の感情は、病気に苦しみ、食べ物も体に合わず、体力が衰えている時に感じるようなものであり、瞋恚蓋から解放された状態は、病気が回復し、食べ物も体に合ったものになり、体力をとりもどし、喜び、うれしさに満たされた時のようなものだと言われている。

惛沈睡眠蓋にとらわれている時の感情は、牢獄に入れられているときのようなものであり、 解放されたときには、牢獄から出て、安全で安定して財産も失わないですみ、喜び、うれしさで満たされている時のようなものだとされる。

掉挙悪作蓋にとらわれている時の感情は、奴隷になって、他人に依存し、行きたいところへ行くことができないときのそれのようだと言われ、それから解放された時には、奴隷状態を脱して、独立自存し、他人に依存せず、行きたいところに行ける自由人となって喜び、うれしさで満たされた時のような感じであると言われる。

疑蓋にとらわれている時の感情は、富と財産を持つ者が砂漠を横切る道に入った時のようなものだとされ、それから解放された時には、無事に砂漠を渡り切り、財産も失わずにすんで喜び、うれしさに満ち溢れているような感じであるという。 

この二つの喩で五蓋のそれぞれのだいたいのイメージがつかめたのではないかと思う。

次回からは個々の蓋の内実をより細かく検討し、坐禅においてそれとどのように取り組むのかを参究していこう。 



『傘松』、『「只管打坐」雑考』より一部抜粋