【坐禅講義21】第一講:菩提樹の下の坐禅
藤田 一照 藤田 一照
2017/07/28 07:23

【坐禅講義21】第一講:菩提樹の下の坐禅

苦行を中止し、川で沐浴してからだを清め、供養された乳がゆで体力を取り戻したとき、釈尊を菩提樹の根元で坐るように誘ったものは何だったのでしょうか?

ここからはわたしの勝手な想像なのですが、かれはもう血まなこになって苦しみから逃げ回ることはやめて、逃げようとしていた当の自分と静かにじっくりと親しんでみよう、とただそのことだけを思っていたのです。子供のときに誰にも教えられず自発的に樹の下で坐ったときのことを思い出したと記している仏伝もあります。そのときの穏やかでくつろいだ状態をなつかしく、また「もしかするとそこに大きな手がかりがあるかもしれない」というある直感とともに、思い出したのでしょう。もう出来合いのメソッドやアプローチには見切りをつけていたはずですから、従うべきマニュアルや頼るべきメソッドのようなものは何もありません。釈尊はあらゆる「~すべし」という規律から解放され、全く自由で自然な状態にいました。手に何もつかんでいない素手の状態です。それがかれに坐るという姿勢を選ばせました。こころでこうありたいと感じたことがそのままからだの動きになったのです。厳粛にくつろぐのに、自己に親しむのに、「自分が自分を自分する」(澤木老師の言葉)のに、より適切な姿勢をとろうとして自発的に動いていったら最終的にはあの坐禅のかたちになったのです。現在に安住するのに最適の姿勢がこうして自然に生まれたのです。存在の深いところから発した要求にしたがって、からだに任せて自由に動いていってたどりついたのがあの姿勢です。いわば行き着くところへ行き着いた姿勢です。

こういうわけで、釈尊の菩提樹の下での坐禅は誰かに教わったことを実行したのではなく、全く自発的なものだったとわたしは考えています。何か特別な行法を意識で「為そう」としたのではなく、為すことでは到り得ない世界があることを知ってただ謙虚にそこに「在ろう」とした。そしてそこに何がおとずれてくるかをただ虚心坦懐に観ようとしただけ。そう言ってもいいのではないかと思うのです。だから坐禅は我が「する」有為の行法ではなく、「しない」無為・無我の行法、行ならざる行法、行法であることを忘れた行法、行法を脱落した行法ということになります。だから「ちからをもいれず、こころをもつひやさずして」(道元『生死』)なされる坐禅なのです。

それとは違って、有為の行法は「ちからをもいれ、こころをもつひやして」行なわれます。必然的にそこには自分、「オレ」という主体的な意識が出張ってきて、全てをマネイジメントしコントロールして、統制して所定の目標を達成することを目指すというかたちになります。道元禅師はこういうタイプの行法を一口に「習禅」とよんで、「坐禅は習禅にあらず」と言って坐禅とはっきり区別しています。「習」は習熟、「禅」は禅定の修行ということですから、習禅とは辞書的に説明すれば、戒・定・慧という三学のなかの定、あるいは布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧という六波羅蜜のなかの禅定、というようにいろいろある仏教の修行体系のなかの一部門としての禅定を行じることに習熟することです。仏教の伝統の中には禅定を練る様々なテクニックが蓄積されてきています。坐禅というとそういうものだと思われていることが多いのですが、道元禅師はそれは大間違いだと言います。

藤田一照著「現代坐禅講義」より一部抜粋


《藤田一照 一口コメント》
道元さんが坐禅と習禅を区別しているということの重大さにはたと気づいたのは、坐禅を始めてからだいぶ経った頃でした。思えばまったくうかつな話です。「坐禅は習禅にはあらず」という道元さんの有名な文句は、それまでに何度も口に出して唱えていたのですが、馬耳東風、心に引っ掛かることがないまま通り過ぎていたのでした。

僕は野口体操の創始者、野口三千三先生が主宰していた下落合の野口体操教室に、足かけ5年にわたって通い、教えを受けていました。野口先生は、僕が大きな影響を受けた、その意味で恩師の一人です。野口体操という非常にユニークで深い哲学と実践が生まれたのは、先生が敗戦後の価値観のどんでん返しを身に染みて体験し、大きな病気を患うというどん底に落ちたときに、これまでの価値観や考え方を全部ご破算にして、ゼロから新しい出発をしなおそうとしたところからでした。「愕然と驚き、あわてふためき」という言い方をよくされていましたが、僕の場合も「今までやってきたことは坐禅ではなく習禅だった」と愕然と驚き、あわてふためき、もう一度最初から出直さなければと思ったところから、新しいスタートが始まりました。

思い返せば、いろいろなことが寄ってたかって、そのことを僕に気づかせてくれたように思います。人生も全くそうだと思うのですが、修行というのは直線的に進むものではなく、あるときガクッと局面が思いがけなく変わるという節目みたいな時期があるようです。


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