永平寺から毎月発行されている時報『傘松(さんしょう)』の中にある一照さんの連載記事、『「只管打坐」雑考』に一口コメントをつけてお届けします。

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道元禅師が中国において天童如浄禅師から直接に親しく受けられた教えを記録した文献である『宝慶 記』のなかに次のようなやりとりがある。



(道元)拝問す。身心脱落とは如何。堂頭和尚(如浄)示していわく、身心脱落とは坐禅なり。只管に 坐禅するとき、五欲を離れ、五蓋を除くなり。



また、別な個所には 


堂頭和尚慈誨していわく、仏祖の児孫はまず五蓋を除き後に六蓋を除くなり。五蓋に無明蓋を加えて六 蓋となす。ただ無明蓋のみを除くもすなわち五蓋を除くなり。五蓋は離るるといえども無明蓋にしてい まだ離れずんばいまだ仏祖の修証にはいたらざるなり。...(中略)...儞が向来、功夫をなすはなにをか なすや。這箇(坐禅)はすなわちこれ六蓋を離る法なり。仏仏祖祖は階級を待たず、直指単伝して五蓋 六蓋を離れ、五欲等を呵するなり。只管に打坐して功夫をなし、身心脱落し来るは、すなわち五蓋五 欲等を離れる術なり。この外すべて別事なし、まったく一箇の事もなし、あに二に落ち三に落つる者 あらんや。


 


という如浄禅師の教えが記されている。


『宝慶記』のなかのこの二か所は如浄禅師が特に「坐禅と蓋(がい)」という問題に関して道元禅師に教えを説いているところで、わたしには大変興味深くまた重要なことが言われていると思われる部分である。


上の引用の中略の部分には、如浄禅師の五蓋と無明蓋の教えを聞いて、道元禅師が礼拝してお礼を述べ叉手して「そのような教えはこれまで一度も聞いたことがありません。誰もそのようなことは教えてくれませんでした。今日は幸いにも師の特別な慈悲を賜り、未聞の教えを聞くことができました。前世に積んだ善根のありがたい報いに違いありません」と語り、たいそう感激した様子が書かれている。



道元禅師の心に何かピンとくるものがあったのであろう。


そしてそのすぐ後で「五蓋や六蓋を除くのに、何か特別の方法があるのでしょうか?」と畳みかけるように質問する。


如浄禅師は微笑みながら、「あなたが日夜つとめ励んでいる坐禅こそがそれなのだ」と上記の引用のようにストレートに答えている。 



ここで論じられている五蓋(あるいは無明蓋を足して六蓋)は坐禅を実際に行ずる上で避けては通れな い問題なので、今回はこの「蓋」について参究していこうと思う。


蓋というのは坐禅の邪魔をする心の働きのことなのだから、坐禅をするにあたってはあらかじめそれについてある程度の理解を得ておくことがぜひとも必要であろうし、また坐禅中にそういうものが起きてきたときにそれとどのように出会うかということは重要な参究課題であるだろう。 


 


「蓋(がい)」というのは手元にある深浦正文著『倶舎学概論』(百華苑刊)によると「蓋は覆蓋の義で、煩悩よく清浄の善心を覆蓋して開発せざらしめるからしかいふので、畢竟煩悩の異名」のことである。


凡夫のわれわれはこの「蓋(ふた)」にすっぽり覆われて生きているので、自分が本来持っている清浄な心(自性清浄心)を輝かすことができないというのである。


われわれの坐禅修行にひきつけて考えれば、それは坐禅が坐禅になることを妨げる心の働きであり、坐禅の深まりを閉ざす壁のようなものだと言えるだろう。


あたかも蓋(ふた)でもあるかのように坐禅を覆(おお)って坐禅が開く明るい世界をさえぎり、坐禅の輝きを曇らせてしまうような、人間なら誰でも持っている煩悩をそのようにたとえているのである。



われわれは普段はこの蓋(がい)(=煩悩)の存在を自覚することなどめったにないのだが、不思議なことに坐禅をするととたんにそれがありありと感じられるようになる。


五蓋がわれわれの内的世界の一部としてあまりにも見慣れているものであるために、それがわれわれの人生に及ぼしている影響を見逃すか、あるいはまったくそのことに気がついていないのだが、坐禅をするとそれがよりはっきりと見えるようになってくるのである。


わたしが初めて坐禅をしたのは鎌倉の円覚寺居士林での冬の学生接心であった。


ある人の勧めで、なんの予備知識もなく、心の準備も一切せずに、いきなり接心に飛び込んだのであったが、この生まれて初めての接心は自分の中にある「煩悩」を嫌というほど見せつけられた一週間だった。



今から十年ほど前に曹洞宗のテレホン法話の原稿を時々書いていたことがあるのだが、そのころに「坐禅は浄玻璃の鏡」と題した、次のような文章を書いた。



子どもの頃、祖母から地獄の大王、閻魔さんの話を聞かされました。


なんでも、閻魔さんは死んだ人を裁く裁判官のようなことをやっていて、生前の行いをすべて映し出す特別な鏡をもっているのだそうです。


それを仏教では浄(じょう)玻(は)璃の鏡と言います。


「この鏡の前ではどのような隠し事もできん。もし嘘をついていることがわかったら罰として閻魔さんがおまえの舌を引っこ抜くんだよ!」と真顔で話すものですから、純情なわたしは長い間そのことを真に受けて信じていました。


しかし、いつしかそれは「嘘をついてはいけない」ということを教えるための単なるお話であり空想の産物にすぎないと思うようになりました。


のちにいろいろな縁で坐禅に親しむようになったころ、人から「坐禅中は無念無想でさぞかしいい気持ちなんだろうねぇ」とよく言われました。


でも実際にはそんなことは滅多にありません。


少なくともわたしの場合は「我が心鏡にうつるものならばさぞや姿の醜(みにく)くかるらん」という歌がぴったりの状態であることがしばしばです。坐禅の中で日常の自分の「浅はかさ」、「いじましさ」がそのままありありと浮き彫りにされるのをまのあたりに見せつけられるのです。


そういう経験と祖母の言っていた浄玻璃の鏡の話があるときパッと一つに結びつきました。


「浄玻璃の鏡は本当にあった!うそじゃなかったんだ。それは坐禅のことなんだ!」と思い至ったのです。 



『傘松』、『「只管打坐」雑考』より一部抜粋