(前回の講義)

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今回カバーするのは「直饒(たと)い会(え)に誇り悟(ご)に豊かにして瞥地(べっち)の智通(ちつう)を獲(え)、道(どう)を得(え)、心(しん)を明らめて衝天(しょうてん)の志気(しいき)を挙(こ)し、入頭(にっとう)の辺量(へんりょう)に逍遙(しょうよう)すと雖(いえど)も、幾(ほとん)ど出身の活路を虧闕(きけつ)す。」のところです。

そこから前の部分は、坐禅という行の前提になっているこの世界の根源的あり方についての記述でした。

それを仮に「原事実」と呼びました。

そこではいろいろな言い方でなされている人間的な努力が無効(浄土真宗の言葉では「自力無効」)であることが強調されていました。

しかし、そのことを毛筋ほどわずかでも理解しそこなうと大変なことになるぞ、という訓戒が付されていました。


今回お話する一節は、その訓戒の続きで、たとえ、修行のおかげで何かを得たと思っても、それにとらわれてしまうと自由に動くことができなくなるという別な角度からの訓戒です。

「瞥地の智通」というのは、智慧の道をチラリと瞥見するという意味で、何かをわかったと思ってもそれはチラリ程度であり、「入頭の辺量に逍遙する」というのは悟りの頭(ほと)りの周辺をぶらぶら歩くという意味で、どちらもどれほど素晴らしくともわれわれの体験を絶対化してはいけないぞということです。

ですからその程度でいい気になっていたら、かえって見たもの、得たものに捕まって、とらわれを脱して自由に生きる道(「出身の活路」)を失うことになるのです。


普く坐禅を勧めるために書かれたこの『普勧坐禅儀』の冒頭部分で、こういう念入りな訓戒が重ねられていることをよく考えて見なければなりません。

私は、この部分は禅にありがちな体験主義を乗り越えることの大切さを示していると解釈しています。