【坐禅講義20】第一講:からだとこころ
藤田 一照 藤田 一照
2017/07/21 07:22

【坐禅講義20】第一講:からだとこころ

これはまさに、道元禅師が『生死』で言っている「ただ自分のからだもこころも放り出し忘れさって、仏の家に投げ入れて、仏の方からはたらきかけられて、それに従っていく」態度です。それを具体的に厳粛にやろうと思ったら坐禅のああいう姿勢に自ずとならざるを得ないわけです。坐禅はそういう態度が受肉したものだということです。ですから坐禅はそういうものなんだという納得がそもそもないと、あのかたちは本当には練っていけません。坐禅をして何かをしてやろうと思っていては、余計な人間的力みを徹底的に抜き、ほぐし、落として、重力に任せて楽にまっすぐに坐るということは実際にはできません。何かを追うようなこころづもりで坐っていてはどうしてもあの坐禅の姿勢が生まれてこないし、保てないし、崩れてしまうからです。こころづもりは即時に筋肉の活動となって顕現するからです。「こころは風のようであり、からだは砂のようなものである。風がどのように吹いているかを知りたければ砂を見ていればいい」(ボニー・ベンブリッジ・コーエン・ボディマインド・センタリングの創始者)。

同じように坐っていても、例えば未来というか理想に向かって駆け出すようにして坐っているのか、現在にくつろいで坐っているのかで坐の中身、実質が全く違います。坐禅の格好がいちおうできていればいいというざっとした話ではないのです。だから、「黙って坐っていればそれでいいんだ」という考えは問題だと思います。黙って坐っていても我慢して坐禅のような格好をしているだけで、全然坐禅になっていないということが多々あるからです。坐っている本人も指導する人も坐禅とはしょせんそういうものだと高をくくっている、坐禅をみくびって開き直っている、という印象を受けます。そういう現状を打開するには、坐禅のあの姿勢はどのようなこころを宿しているのか、どのようなこころがあのかたちとなっているのかということをよく考えてみなければならないと思います。

本当に悲しいときには別にそうしようと思わなくても、自然に涙が出てきたり、悲しい表情やしぐさが生まれてきます。悲しいという感情がそういう様々なかたちで身体的に表現されるというような言い方をしばしばしますが、わたしは本当はどちらが先ということはなくもともとは「悲しい」という一つの事実があるだけで、強いて二元論的に言うなら、それが心理面と身体面に同時に現われているのだと思います。それは、こころとからだが一如である、身心一如というのは、二つのものが密接に繫がっているということではなく、こころはからだであり、からだはこころだというぐらいに一つだと理解しているからです。

坐禅が宿しているこころを抜きにして、マニュアルにしたがって脚を組んだり、手でかたちを作ったり、背中をまっすぐにしたり、息を丹田まで届くように深くしても、考え事が浮かんでこないようにしても、それは魂の入らない人形を作っているようなものです。それは自分の人格とは何の関係もない瞑想技術の習得でしかありません。たとえ瞑想技術の達人になったとしても、あいかわらず凡夫のままでいることだって、いや悪くすると瞑想技術の習得に血道をあげたせいでますます凡夫に念が入ってしまうということだって十分あり得るのです。技術的にピアノを楽譜通りに完璧に弾けることがそのまま、その人の音楽性の高さ、芸術性の深さを意味しているのではないようなものです。

藤田一照著「現代坐禅講義」より一部抜粋


《藤田一照 一口コメント》
坐禅の格好をしていれば坐禅になるかというとそうではないと思います。いやいや坐禅をやらされていたら、当人としてはいくら言いつけどおりの格好で坐っているつもりでも、見る眼のある人が見れば一目瞭然でしょう。そこここに隙が見えるに違いありません。見物人を意識して、その恰好をして見せているにすぎないのですから、形と中身に齟齬ができて、それを隠すような努力を続けているからです。第一、そんな坐り方をしていれば、人格にゆがみが出てきます。嘘つきを続けているのと変わらないのですから。そんなことならむしろしない方がいいのではないでしょうか?坐禅は強制されてやるべきではないと思います。人間社会ではそんなことをしなくても生きていけます。それを敢えてしようとする以上は、人間社会への適応ではない何か別な求めか願いが当人の中に芽生えているのです。そこにアクセスして坐っていかないと、坐禅と自分の間にいつも隙間ができてくるのではないでしょうか。世間相場の効能で坐禅を云々することを嫌うのは、そのためなのです。

とはいっても、始めから純粋な坐禅の心で坐るというのはわれわれ凡夫には難しいのが現状です。いやいやでも坐っているうちに、心の奥底にあった坐禅の心が何かの機縁で育ち始めるかもしれません。そういうことは確かにあるのです。ですから、普く勧めて、一人でも多くの人に坐蒲の上にお尻を運んでもらうように努力するしかありません。


(次の記事)
【坐禅講義21】第一講:菩提樹の下の坐禅


(前の記事)
【坐禅講義19】第一講:作り事なし

正会員になると
投稿にコメントすることや、禅コミュニティに参加することができます。
藤田一照への質問および
正会員向け坐禅会に参加することができます。