永平寺から毎月発行されている時報『傘松(さんしょう)』の中にある一照さんの連載記事、『「只管打坐」雑考』に一口コメントをつけてお届けします。
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【「只管打坐」ハートで坐る坐禅 1 】
これまで七冊の英語の本を日本語に翻訳して出版してきた。
古い順に並べると、ティク・ナット・ハン『禅への鍵』(春秋社)、スティーブン・バチェラー『ダルマの実践』(四季社)、デビッド・ブレイジャー『フィーリング・ブッダ』(四季社)、キャロライン・ブレイジャー『自己牢獄を越えて』(コスモス・ライブラリー)、ドン・キューピット『未来の宗教』(春秋社)、ティク・ナット・ハン『法華経の省察』(春秋社)、鈴木俊隆『禅マインドビギナーズ・マインド2』(サンガ新書)である。
『未来の宗教』は、英国のキリスト教神学者の本であるが、それ以外はみな仏教書だ。
わたしは仏教を専門に研究する学者でもなく、また英語の翻訳を特別に学んだわけでもない、ただのアマチュアにすぎないが、日本の読者に紹介する価値があると思った本を選んで、浅学菲才の身をかえりみず、コツコツと訳し続けていたら、いつの間にかこれだけの数になっていた。
もとよりベストセラーになる可能性など微塵もない地味な本ばかりだから、たいした部数は出版されない。
したがって手にする翻訳料など、それにかけた労力と時間に比べれば微々たるものでしかない。
連れ合いに言わせれば「あなたの翻訳は『仕事』なんかじゃないわ。ただの『道楽』よ。」ということになる。
返す言葉もない。
しかし言い訳めくが、同じ本を何度も何度も読み返すことになるので、仏教と英語の勉強になることは間違いないし(いろいろ調べて訳注をつけたりするのは自分にとってとりわけ楽しい作業である)、訳者という立場で、堂々とメールで質問などを送ってあれこれやりとりすることで、自分の気になる本を書いた著者と、お近づきになることができるのが何よりもうれしいのである。
身内からいくら「道楽」と揶揄されようと、この先も翻訳の仕事を続けていこうと思っている。
さて、そういう訳でこれまで相当量の英文の仏教書を読んできたが、英語としてはごく簡単な言葉であるにもかかわらず、どうにも日本語には訳しにくくて頭を抱えるような、やっかいないくつかの単語に出会ってきた。
その一つ(二つ?)がmindとheartである。
わたしが読むような種類の英語の本ではこの二つが微妙に、あるいは明確に区別されて使われていることが多いのだが、日本語ではどちらも「心」と同じ言葉で訳されるのが普通だ。
You just don't know what I have in mind.(あなたは私の心が分かっていない)とか、You can have my heart and soul.(君は僕の身も心も手に入れることができる)といった具合だ。
しかし、mindとheartを同じように「心」と訳したのでは、たとえばWhen the heart falls under the mind’s influence,......といった文は「心ハートが心(マインド)の影響を受けるようになったら、......」となって意味をなさなくなってしまう。
英語の発音をそのままカタカナで「マインド」と「ハート」と書いて区別する手もある。
とはいえ、それではあまりに安易で、芸のないやり方のようにも思えるので、mindを「アタマ」、heartを「こころ」と訳し分けたこともあった。
それもあまり満足できる訳語だとは思えない。
今のところ、この二つの英単語のもつニュアンスの差異を、うまくとらえることができるような適切な日本語のペアはまだ見つかっていない。
しかし、わたしは、mindとheartという相異なる心の働きをちゃんと区別し、それぞれがどのような特質を有し、相互に関係し合うのかを知っておくことは、仏教の教義を理解するうえでとても重要なことだと考えている。
もちろん、それは仏教の実践、われわれの場合で言えば、坐禅について論じる場合も同様で、マインドとハートの違いをよくわきまえておくこと、そしてマインドからハートにシフトして坐禅を行じる工夫が大切だと思っている。
今回の論考では、他により適切な言い方が思いつかないので、芸のない話で恐縮だがとりあえず「マインド」と「ハート」という表現で話を進めさせていただくことにする。
マインドは「他者と無関係に自分で自分の内容とあり方を決め、設計し、それを維持・実現するまことに自分勝手な意志」(キリスト教神学者の八木誠一氏の「我」についての説明を借りた。『回心イエスが見つけた泉へ』岩波書店参照)である。
だから、外界からの影響を受けて、自分が動揺しないように固く自分を縮めて防御している状態になっている。
そのために、感覚器官の働きによって刻々に届いてくる、感覚データに対しては感受性を閉ざしている。
その代り、自己中心的な思考の働きが優勢になっている。
シンキング・マインドと言われる所以だ。
自分で自分自身を設計するということは、裏を返せば言語の使用による思考が「かくあるべき自分の物語」を常に考え続けているということだ。
それがマインドのあり方の際立った特徴である。
坐禅をしていると、内的、外的経験に対して敏感であることを思考が妨げていることがよくわかる。
坐禅という営みにおいては、眼耳鼻舌身意という六つの感覚に、自分を均等に開いて坐ることに努めるのだが、われわれはついついそこから外れて考え事に耽ってしまうことがある。
それは「自分を主人公にした物語」が感覚データの周りに形作られているということである。
たとえば、「おれのこの鼻詰まりはもしかしたら風邪かもしれないな、それとも花粉アレルギーかな。それなら、薬を飲んだ方がいいかなあ。どこに置いたかなあ。......空を飛んでいるあの飛行機の音を聞くと去年アメリカに行ったときのことを思いだすなあ。あの時食ったハンバーグはうまかったなあ。今度行ったら何を食べようか。......」ここで、ふとわれに帰り、いつのまにか崩れていた坐相を正し、思いを手放して、坐禅に帰る......。
読者の皆さんも、坐禅中にこういう白昼夢から覚めるという経験をしたことがおありになるだろうが、思考に耽っている時と思考を手放した時とで感覚への感受性はどのように違っていただろうか?
『傘松』、『「只管打坐」雑考』より一部抜粋