【坐禅講義19】第一講:作り事なし
藤田 一照 藤田 一照
2017/07/14 07:25

【坐禅講義19】第一講:作り事なし

道元禅師は「坐はすなはち不為なり」(『正法眼蔵随聞記』)と言っています。

「為」というのは人為、作為の為ですから、作り事、きつい言い方をすればでっちあげ、捏造という意味です。だから不為である坐禅では一切作り事はしないということになります。作り事というのは今ないものをこちらの意思や意図で人工的、人為的に作り出そうとすることで、そういうことは一切しないという意味です。そして「そういう坐禅が自己の正体である」とも言っています。つまり、作り事一切なし、ありのままでいるその坐禅のときのありようが自分の正体、実物である、ということです。もちろんその正体はカチッと固定した置物のようなものではなく、刻々に変化し流れています。これこそが真のわたしだというような決まったもの、固定的なものが正体ではありません。刻々に流れているままの全体が正体なのです。

不為、作り事なし。まずはそこから始めないと本当の変化は起こらないのです。こちらが意図的に何か変化を起こそうと余計なことをすると望んだ変化はめったに起こらないけれども、ありのままのところに落ち着いていると停滞することなく自然にどんどん変わるべくして変わっていくのです。われわれはどうも、自分が常に何かやっていないと、いつもコントロールしていないと、何も起こらないんじゃないか、自分にとって悪いことばかりが起こるんじゃないかという不信感や恐れを持っているようです。自分がいつもイニシアティヴをとっていないといけないような強迫観念を持っている、だからコントロールを捨ててありのままに任せること、つまり徹底してくつろぐということがとても難しいのです。

しかし、本当にそうなのか、その不信感、恐れは根拠のあるものなのかどうか、コントロールを捨ててありのままにしたらどういうことが起きるのか――それを実際に試してみようとする勇気ある行いが坐禅なのです。条件で成り立っているものは常に変化していく、つまり諸行無常というのが仏教の根本的教えです。坐禅は無常を無常のままにまかせて無常させていることだ、と言えます。

諸行が無常する仕方は、無量無辺の因と縁の働きによって千変万化し、ダイナミックに変わっていくもので、とうてい小さな自分の思い通りにコントロールできるものではありません。自分としてはもうお手上げというか、全面降参して、起きてくることはなんであれ全部受け容れる、選り好みせずにみんなありがたくいただく、全てのものがあるようにあることを受けとめる、英語で言うならビートルズの有名な歌の題にもなっているレットイットビー(そのままにしておく)、そういう態度があの坐禅の、逃げも隠れもしていない姿勢に結実しているのです。

藤田一照著「現代坐禅講義」より一部抜粋


《藤田一照 一口コメント》
われわれには「これこそが真実だ。俺はついにその真実を見つけたぞ!」というような感激を味わいたいという根深い欲があります。英語で言えばI got it!という達成感への渇望です。

しかし、こういう人情を満足させるようなものは、宗教とは何の関係もありません。宗教はそういう物足りようという思いを超えた世界の話だからです。われわれにとっては残念で切ないことではありますが、諸行無常というこの宇宙の真実は、人間のそういう渇望を満足させるようなものではないということを受け入れる必要があります。これこそが真実の天気だ!というような決まったものがないように、その時その時の天気がどれもみなその時の真実なのです。それ以外のあり方でこれこそがというような真実を設定すると、その途端にその真実性を肯定する者と否定する者との対立が生じてきます。

諸法実相という法華経のキーコンセプトは一切が真実の相であるということです。何必(げんじょうかひつ)という表現は、道元の『正法眼蔵 現成公案』の中に出てきます。「何ぞ必ずしも」という意味で、英語ではnot always soと訳されています。僕が翻訳した鈴木俊隆老師の第2講話集(『禅マインド ビギナーズ・マインド2』サンガ新書)の原題はnot always soでしたが、それは「いつも必ずしもそうではない」という部分否定の表現です。ある時にそうだからといって、それがいつもそうであるとは限らない、ということです。何であれ本当に当てにできるものはこの世にはないというのが仏教の基本なのです。坐禅はそういう態度の決定(けつじょう)の姿勢だと思います。


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