永平寺から毎月発行されている時報『傘松(さんしょう)』の中にある一照さんの連載記事、『「只管打坐」雑考』に一口コメントをつけてお届けします。

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貪欲蓋を起こす要因としては感覚的な対象物の他に、貪欲の思いが満たされれば永続する幸福が得られるという根本的な思い違いが挙げられるだろう。

Aという何か(富、名誉、地位、権力、性的快楽、宗教的達成など)が得られれば幸せになると信じて、長年にわたる犠牲的努力の果てにやっとそれを手に入れたのに、高い山ぐらいの大きな幸せが味わえるはずだという期待に反して自分の中に実際に見いだせたのは砂粒ほどのサイズの幸福感でしかなかった、というケースは枚挙にいとまがない。

それどころか逆に不幸になってしまうということもしばしば起きている。

そのときわれわれは、貪欲を満足させることが幸せであるという思い込みが誤りであったと思い知らされるのである。

程度の差こそあれ、誰もがそれが間違いであったことを教えられる経験をしているのではないだろうか。

 しかし現実にはわれわれは毎日、貪欲の思いを掻き立てる情報にさらされており、欲望を増大させることは良いことであるという「洗脳」教育を受けている。

だからこそ余計に、釈尊が説くように貪欲がいかにして起きてくるのかを如実に見て、それを深く理解することが重要なのだ。

坐禅には、それが可能な条件がそろっている。

坐禅はその意味では「煩悩の研究室(ラボラトリー)」なのである。

そこで「未だ生じていない貪欲がどのようにして生じるか」を直に知る実験を繰り返すのだ。

さて次は、すでに起こってしまった貪欲蓋をどうするかという問題である。

仏典では煩悩が神話的な表現で悪魔(マーラ)として描かれていることが多い

釈尊がまさにこれから悟りを開こうという時に、悪魔がそれを邪魔しようとしてさまざまな妨害工作を試みた話は有名だが、興味深いことに釈尊が降魔成道してブッダ(覚者)になった後も、悪魔はしばしば釈尊の前に現れている。

南伝の相応部経典の第四には『悪魔相応』と呼ばれる一群の経典があって、そこには二十五経の悪魔物語が集められている(中村元訳『悪魔との対話―サンユッタ・ニカーヤII』岩波文庫参照)。

釈尊の前に現れた悪魔はさまざまな問答や誘惑を仕掛けるのであるが、ことごとく退けられる。

その時の定型の表現はこうなっている。

「そのとき尊師は『これは悪魔・悪しき者である』と知って...そこで悪魔・悪しき者は『尊師は わたしのことを知っておられるのだ。

幸せな方はわたしのことを知っておられるのだ』と気づいて、打ち萎れ、憂いに沈み、その場で消え失せた。」これは何を物語っているのだろうか?

 ここで言われているのは、「悪魔を悪魔と知る」ということの持つ力ではないだろうか?

「悪魔よ、 わたしにはお前がそこにいることがよく見えているよ(わかっているよ)」と釈尊に言われてしまうと もう悪魔は引き下がるしかないのである。既に生じている貪欲蓋の存在を知ること、つまり「貪欲蓋 よ、わたしにはお前がそこにいることがよく見えているよ」と言い得ること自体が、自分が貪欲蓋に 覆われていないことの証しになっているのである。

このように自分のなかに今、何が生じているかに しっかり気づいていることを、最近日本でも使われ始めた英語の言葉を借りて表現するならば、貪欲 蓋について「マインドフル」であると言う。

その名詞形が「マインドフルネス」である。

この言葉につ いてはいつかまた別に詳しく論じることになるだろう。

マインドフルネスの力によって自己と貪欲蓋の同一化が解体され(自己貪欲蓋)、貪欲蓋の本性、つまりそれが無常であり、無我(因と縁によって立ち上がってきた現象にすぎないこと、その背後にそれ を統べる自己がないこと)であることが見通せるようになってくるのだ。

自分が貪欲蓋に覆われている か、それともそれから自由になっているか、これを常に冷静に振り返ることを忘れないこと、これも またマインドフルネスの働きである。

こうしてマインドフルネスは悪魔の手中に落ちないようにわれわれを守ってくれる働きをする。

マインドフルネスは漢訳の仏教語では「不忘念(ふもうねん)」に当たる。

『仏遺教経』には「汝等比丘、善知識を求め、善護助を求めること不忘念にしかず。

若し忘念せざる者は、諸の煩悩の賊則ち入ること能わず。

是の故に汝等、常に当に摂念して心に在るべし。

若し念を失する者は、則ち諸の功徳を失う。

若し念力堅強なれば、五欲の賊中に入ると雖も害される所にならず。

譬えば鎧を著け陣に入れば、則ち所畏無きが如し。

是を不忘念と名づく」とはっきりとそういう働きが記されている。

最後のステップは、どのようにして未来に貪欲が起きないようにするか、という問題である。

ステップ 3によって貪欲蓋がどのようにして起こるのかを知ることができれば、なんらかの賢明な予防的措置を 講じることができるようになるはずだ。

身体的な健康と安寧のために予防的ケアをするように心に関 しても同様の予防的ケアをするということだ。

釈尊が挙げているいくつかの方策としてはたとえば、感覚の入り口を守ること、つまりそこから何が入って来ようとしているかにマインドフルであるというこ と、飲食に節度を持つこと、善知識と交わることなどがある。

紙面が尽きたので今回はここで止めることにする。

次回は五蓋の第二、瞋恚蓋に話題を移そう。


『傘松』、『「只管打坐」雑考』より一部抜粋