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[序講6] 自分に落ち着けない理由
藤田 一照 藤田 一照
2017/04/14 13:00

[序講6] 自分に落ち着けない理由

それにしてもわたしたちはどうして部屋でじっと休息していることができないのでしょうか? どうしてこころの底からくつろぐことができないのでしょうか? くつろぐことなんて至極簡単なことのように思えるのに、実際にやってみるとわかりますが、本当におどろくほど難しいことなのです。その点でパスカルは正しいのです。

坐禅が難しいのは、よく言われるような、からだが硬いので脚を組んだりするのが痛くて大変だとか、背中をまっすぐにして坐っていると腰がすぐに痛くてたまらなくなるとか、すぐ眠くなるとか、考え事が次から次に湧いてきてとまらないとかといったことのせいではありません。そういうことはいわば症状であって根本的な原因ではないのです。坐禅それ自体が難しいのではなく、それにとり組むわれわれの側に坐禅を難しくしてしまういろいろな原因というか問題があるせいなのです。一番奥底の原因だと思われるのはそれら表面的な困難の底にある「くつろぐことの難しさ」なのです。だから、くつろぐ能力が欠如しているか、未熟なわれわれがくつろぎの純粋形のような坐禅をするのにひどく骨が折れるのは当たり前といえば当たり前なことです。

われわれがくつろぐことができないのは、現在の自分に落ち着いていることができないからです。今の自分に満足できず、じっと向き合っていられなくて、ゆっくり親しんでいられなくて、いてもたってもいられなくなって、どうしても外に向かって何かもっとマシなものはないかとそれを求め始めてしまうのです。もの欲しそうな顔をして部屋から外にとび出し、あちこちを探し歩いてしまうのです。まるで安住できる家を持たない放浪者のように……。

それは言い換えると、自分自身にどこか疑いを抱いているということです。つまり、自分への不信感ですね。自分ほど身近なものはないはずなのに、どういうわけか本当の自分というものが自分にあきらかになっていない。だからこそ、自分で自分に落ち着けないし、自分に親しむということがこれほどにも難しいのです。

人間にとって自己の存在ほど重大な問題はないはず(大智禅師が先ほどの引用で「生死の大事」といっているのはそのことに他なりません)なのですが、多くの場合、人はその問題から眼をそらし、それについて無知と無関心のままに日々を過ごしています。しかし、それは問題の解決でもなんでもなく単なる逃避に過ぎませんから、こころの底には絶えず不安な気分や焦燥感、不満が滓(おり)のように残っています。それがしばしばわれわれを様々な形態の気晴らし行動へと駆り立てるわけです。それは、「もがき」、「あがき」と言ってもいいでしょう。

道元禅師の『正法眼蔵 唯仏与仏(ゆいぶつよぶつ)』のなかに「本当の自分を見得ている者はほとんどいない。ただ仏だけがそれを知っている。それ以外の者たちは空しく、本当の自分ではないものを自分と思っている」とある通り[註1]、人間は本当の自己がわかっていないと本当のような偽りの自己、いかにも本物のようにみえる、にせものの自己にすがるようになります。それに執着するようになります。そうしないとどうにもこうにも自分の身が持たないように感じてしまうからなのですが、あいにく偽物では結局のところは役には立ちません。せいぜい一時しのぎが関の山です。それどころか偽物の自己にすがろうとすればするほど、結果的に自分や他人を傷つけ苦しめることになります。これはパスカルが「人間の不幸」とよんだことの仏教流の表現に他なりません。パスカルが言った「部屋でじっと安静にしていることができない」という事態と「今ここの自己に安住することができない」、「現実の自己を信じることができない」ということは本質的に同じ事だからです。

坐禅の背景には仏教があり、仏教の背景にはこういう「人間の不幸」についての切実で痛みを伴った自覚、洞察があります。ですから自分の人生に切実な問題があることを感じていない者には、はっきり言って仏教も坐禅も意味をなしません。そういう人には仏教は単なる耳に心地よいお話以上のものではなく、坐禅は精神鍛錬のエクササイズとしか見えません。一回限りのこの自分の人生をいったいどう生きるべきなのか、あれやこれやで忙しい忙しいだけで終わっていいのかという切実な問題意識を持っている人にして初めて仏教の話も生きたものとしてビンビン響いてきますし、坐禅の本当のねらいもはっきりつくようになるのです。深いところでは少しもくつろげてはいない自分、本当の安心を見出せていない自分を、観念レベルだけではなくもっと切実な実感をもって認知するところから、仏教を学ぼう、坐禅をしようという本気の思いが起こるのです。そういう発心があって初めて仏教や坐禅との本当の出会いの道が開かれていきます。

[註]
1 原文 まことのみづからをばみるものまれなり、ひとり仏のみこれをしれり。その外の外道等は、いたづらにあらぬをのみわれとおもふなり。

藤田一照著「現代坐禅講義」より一部抜粋

〔藤田一照 一口コメント〕

バリバリと勉強したり、仕事をこなしていく人がもてはやされる風潮においては、ここで言われている「くつろぐことの大切さ」など、全く相手にされないかもしれません。たぶんそうでしょう。それどころか、何を寝言のようなことを言っているのだ、いかがわしい、調子のいい話はよせ、と攻撃されかねません。くつろぐ、というのは今、ここにいる、ということです。今、ここにすでに豊かにある輝きを観ないで、走るその先にあると想定される未だない何かを求めることの方がもっと価値がある、より素晴らしいことだというのが世間の言い分です。それにしたがって、「今、ここ」を常に「今ではないいつか、ここではないどこか」のために生きるのもいいでしょうが、それでは近代特有の「先へ前へ競わせ駆り立てる仕組み」の餌食になり果ててしまいます。セネカというローマ時代の哲学者がすでに「生きることの最大の障害は、期待を持つということである。それは、明日に依存して、今日を失うことである」と言っていますが、それ以降の人類はかれのこの洞察から少しも学ばなかったということなのでしょうか?

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