永平寺から毎月発行されている時報『傘松(さんしょう)』の中にある一照さんの連載記事、『「只管打坐」雑考』に一口コメントをつけてお届けします。

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【「只管打坐」〜最清浄法界等流の坐禅〜3 】

 行者が自分自身の分別心から勝手に計らうということがあってはならない。

だから「仏のかたよりおこなはれて、それにしたがひもてゆく」ことがあって初めて、何らかの身体的行いが行になる。

己を空しくして「したがひもてゆく」ことを通して、その行いが法の実現、表現になるということだ。

親鸞は「行者のはからひにあらず」と言っている。

行というのは、法が自己の身の上において表現、実現されることでなければならない。

さもなければ、普通の人間があれこれ考えて考案した技術やメソッドを、普通に人間業(わざ)として実行しているのと変わりのないものになってしまう。

メソッドや技術であれば、当然そこに改良や進歩ということが可能で、より効率のよい新しいものが発明されれば、古いものはあっさりと捨てられそれに取って代わられる。

しかし、行としての坐禅にはそういう技術的な思考法は当てはまらないのである。

人間の勝手が通用しない万古不易の「方(かた)」が厳としてあるのだ。

それを『辦道話』では「三業に仏印を標し」と表現している。

身口意の三業に方(かた)が刻印されるという意味だ。

その方(かた)に教えられながら、われわれの側が「自己を矯める(正しく直す)」努力をしていくのが行であって、われわれの都合に合わせて「方(かた)」を変更するのではない。

この関係を取り違えないようにくれぐれも注意しなくてはならない。


しかし、法が方(かた)として現成したという意味で「方(かた)としての法」であるはずの行が、いつしか目的達成のための手段としての単なる「方法」に堕してしまう危険性は常に存在している。

『辦道話』の冒頭に「ただ、ほとけ仏にさづけてよこしまなることなきは、すなはち自受用三昧、その標準なり」という一文があるが、悲しいかな「よこしまなること」がしばしば起きるのが人間世界というところである。

前にもこの連載で紹介したことがあるが、澤木興道老師の高弟の一人である横山祖道老師は「坐相降臨」という言葉を残されている。

横山老師いわく、「坐禅と宇宙は合同である。坐相は宇宙そのものが、我はかくのごときものであるといって、人の坐相となって雪山のほとりに天下ってきたものである。つまり坐相降臨。自分が坐禅しているという思いが先立っているけれども、実はそうではなく宇宙そのものが坐禅しているのだ」。

これはまさに坐禅の姿は、法が方(かた)として現成したものであるということを、横山老師流の言い方で語っている言葉である。


もちろん、坐禅の方(かた)は、人間がいろいろな試行錯誤や模索、実験を繰り返す中で自然に形が調えられてきたものに違いないが、それが最終的に「方(かた)」として決まったということは、人間が勝手に作り上げたものではなく、人間が長い探究のプロセスの果てに発見し、それに出会ったと言うべきなのである。

「最清浄法界等流(さいしょうじょうほっかいとうる)」という唯識の興味深い用語がある。

「最も清らかな真理の世界から流れ出たもの」という意味で、多くの場合は「経典」のことを指している。

経典というのは言葉を超えた真理の世界=無分別智の境地から流れ出て、言葉による分別によって迷っているわれわれを、真理の世界へ導く言葉なのである。

だから、同じ言葉であっても、われわれが日常使っている言葉とは出どころがまったく違うし、質も役割もまったく異なっている。

経典を学ぶ時は、経典を単なる人間の頭から出た普通の言葉としてではなく、法が言葉に成ったものとして受けとるという態度で、臨まなければならないということだ。

それと同じことが坐禅という行法についても言えるのではないだろうか。


坐禅もまた「最清浄法界等流」の「方法(方(かた)となった法)」として受けとるのが、坐禅の行者の態度でなければならない。 

最清浄法界から流れ出てきた方(かた)としての坐禅であるなら、坐禅の背後には最清浄法界への道がつながっているはずだ。

それは坐禅という方(かた)は、法界の方向性(かた)を生き生きと指し示す力を持っているということだ。

坐禅が道であるというのはそういうことを意味している。

道は常にどこかへ向かっての道だからだ。

われわれが坐禅をするときには、法界から流れ出てきた坐禅に導かれて、それがやってきた方角へ向かって道を歩んでいるのだ。

たとえ、それが一人一時の坐禅であっても、それが坐禅である限りは本人の覚知を超えて、そういう無上に尊いことが必ず起きている。

坐禅の功徳がどれほど広大なものかを、道元禅師は「しるべし、たとひ十方無量恆河沙数の諸仏、ともにちからをはげまして、仏知慧をもて、一人坐禅の功徳をはかり知りきはめんとすといふとも、あへて辺りをうることあらじ」(『辦道話』)と表現している。

坐禅が最清浄法界の方向を指し示す方(かた)ではなく、そのような法界とのつながりを喪失して、人間世界のレベルでの単なる方法、手段として形式化してしまったとたんに、そのような功徳は空無に帰してしまう。

われわれが日々務めている打坐が、そのようなものに堕さないように、審細な実参実究が必要とされている。

 

 

 

 

『傘松』、『「只管打坐」雑考』より一部抜粋