永平寺から毎月発行されている時報『傘松(さんしょう)』の中にある一照さんの連載記事、『「只管打坐」雑考』に一口コメントをつけてお届けします。

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 この第一の心であるマインドは、岡によれば、「わたしというものを入れなければ動かない」のであるから、第一の心で実行されるマインドフルネスはどこまでいっても「わたし」の営みであって、したがって有心であり、有為であり、人為、人工でしかありえない。

おそらくこんなことを言うと、「それでどこが悪いのか?役に立つのならそれでいいではないか!」という反論が当然のように返ってくるだろうことは想像に難くない。

そういう人たちは、「わたし(吾我)」を入れずに動く心というものがあることなど思いもよらないからだ。

ましてや、第二の心はもともとがマインドフルであるので、作為なくマインドフルネスが実現するといった可能性はかれらの理解の範囲を超えている。

マインドフルネスの効果としてしばしばあげられている「集中力が増加し、記憶力と学力を向上させる。創造性を高め、クリエイティブな仕事を可能にさせる。ストレスを抑制し、免疫力を高め、健康を改善する。全般的な幸福度を高める。......」も実はあくまでも「わたし」の集中力、記憶力、学力、創造性であり、「わたし」のための健康であり、幸福度なのだ。

ここではマインドフルネスは「わたし self」を中心に据えた「自己修養self improvement」、「自己成就(self-fulfillment)」、「自己増進 (self-enhancement)」、...というふうに「吾我のためのマインドフルネス」という文脈でしかとらえられていない。

しかし、これでは道元禅師が「学道の人は、吾我のために仏法を学することなかれ。ただ仏法のために仏法を学すべきなり」(『正法眼蔵随聞記』)と言われていることとはまるで違ったことになっている。

もっとも、現在のマインドフルネスはすでに仏教とのつながりを脱した、〝宗教色 〞のない「世俗的マインドフルネス」であるから、それが仏法にかなっているかどうかなどまったく問題にならないと言われればそれまでである。

「世俗にいるわれわれが、そこでより良く生きていけるように、吾我のパワーアップを目指してマインドフルネスを利用することのどこがいけないのか!?」というわけである。

 しかし、それが仏法にかなったことかどうかという問題とはまったく別に、世俗的文脈においてすら、第一の心=吾我でマインドフルになろうとすることはまったく無理なこと、あるいはきわめて困難なことなのではないだろうか?その理由は、マインドフルネスの実践が最終的に目指している方向性、つまり、思考が作り出した自と他という虚構の分断から、リアリティである本来のつながり(縁起)へと目覚めていく方向とは真逆の、自と他の分離という前提(それが吾我の心)に基づいてマインドフルになろうとしているからだ。

それはあたかもアクセルとブレーキを同時に踏み続けているようなもので、本人の懸命の努力にもかかわらず少しも前に進んでいかないのである。

しかも、第二の心があることを知らない限りこの前提を変えることができないので、そのような行き詰まりの事態に対しては、「まだ努力が足りないからだ」、「もっと努力しなさい」と努力の度合いをさらに上げるか、「そのうちなんとかなる」、「きっといつかできるようなる」と期待を将来へ先延ばしにするか、その二つしか手の打ちようがなくなってしまう。

実はそうではなく、文字通り、第一の心から第二の心へと「心を入れ替えて」、まったく違う前提に立って取り組むべきなのである。

そうすれば、取り組む態度(自他の分離という虚構を手放してリアルなつながりを回復しようとする方向)とやっていること(マインドフルネスとは判断を入れずに対象のありのままを受容し親密になること)がぴたりと合致しているので、すらすらと前に進んでいけるようになっているのだ。

しかし実際は、この肝心の「心の入れ替え」をすることが、頭の固いわれわれにはなかなか容易ではない。このマインドフルネスの場合と全く同じように、わたしがアメリカで坐禅を教えるとき、一番苦労したのは、岡潔の表現で言えば、坐禅という仏教実践は第一の心で理解したりやったりするものではない、第二の心があることを知らなければ話が始まらないということを伝えることだった、と言える。

これは坐禅をする以前のそれに取り組む態度の問題であるが、本質的に最も重要な問題なのである。

ここを外したら坐禅が坐禅にならないので、道元禅師もいろいろな言い方で何度も強調されている。

しかし、実践に熱意を燃やすかれらは、第一の心とはまったく異なる第二の心があるということがどうしても納得できないので、そこを飛ばして、とにかくはやく坐禅の「やり方」を学んで、坐禅ができるようになりたがるのである。

第一の心のままで、つまり「わたしという意識=吾我」で坐禅を手に入れようとするのだ。

このような構えで取り組めば、どうしても坐禅がテクニック、メソッドに思えるのは致し方のないことである。

そして、その結果、坐禅が強為でなされる習禅へと変質してしまう。


『傘松』、『「只管打坐」雑考』より一部抜粋