【坐禅講義18】第一講:コントロールを手放す
藤田 一照 藤田 一照
2017/07/07 07:25

【坐禅講義18】第一講:コントロールを手放す

何かのために坐禅をする、アテを持ち込むということが坐禅にとっては大きな問題となるということを別な観点から述べてみましょう。何かを目当てに坐禅をするという以上、そのお目当ての何かはまだここに存在していないということを意味しています。逆を言えば、今の自分のありようではだめだ、それでは満足できないということです。その何かを作り出さなければ、今のままの自分に安んじることができないということです。そのために今の自分を自分の望むような別な自分に変えようとしてこころやからだをコントロールしようという動きが生まれます。そしてそういうコントロールのために有効とされる様々なテクニックやメソッド(方法)が編み出され、洗練されていきます。そして「~を得るための実践マニュアル」ができ上がります。

釈尊は出家をされたあと、苦しみの原因であるとされる煩悩を断じるために、当時主流であった二つの行法を試みました。一つは煩悩が起こるのはこころがあるからである、だからこころの働きを停止させれば煩悩は起こらないという考えに基づく修定主義の瞑想行です。もう一つは煩悩の起こる原因はからだの働きにある、だからからだの働きを最小限に抑えれば煩悩は静まるという考えに基づく苦行主義の様々な苦行です。釈尊はこの二つの行法を師の教えやおそらくはそれまでに伝承され洗練されてきたメソッドに従って、徹底的に試み一定の成果を得ました。しかし、結局はどちらも放棄して、菩提樹の下で坐禅を組み正覚を得ました。

わたしは、出家後に行なった瞑想、苦行とそれを捨てたあとの坐禅との間に、釈尊のなかで修行への取り組み方における大きな転換があったはずだと思っています。つまり、坐禅には瞑想でもなく、苦行でもない、何か革命的に新しいところがあるということです。それはいったい何なのでしょうか?

いろいろな解釈ができると思いますが、今の文脈で言うなら、それは自意識によって行なわれるコントロールの放棄ということではなかったでしょうか。瞑想にしても苦行にしても、煩悩を断滅させるためにこころやからだを様々なテクニックを駆使してコントロールしようとします。そこでは、こうしたらこうなる、だからこうしなさいというテクニックやメソッドがあって、それに忠実にしたがって、マニュアル通りに一連のコントロールを遂行しています。確かにこういうやり方はうまくいけば一時的には功を奏するかもしれません。しかし、コントロールするのを止めたらまた元の木阿弥に戻ってしまいます。それはコントロールすることによって作為的に作り出した状態、きつい言い方をすれば人工的に捏造した不自然なものだからです。たとえていうと、おしゃべりでうるさい人を黙らせるのに口にガムテープを貼りつけるようなものです。そのときは静かになりますが、テープをとったらまたしゃべり出します。もしかしたら、今度は我慢していた分、その人は前よりうるさくなるかもしれませんね。

釈尊はテクニックを駆使したコントロールによって煩悩をなくそうとするアプローチの不毛さに気がついて、それとは全く別なアプローチを取った、それが菩提樹の下での坐禅だったということです。ですから、坐禅はテクニックを使って何かをコントロールして目的を達成しようとするような営みではないことになります。

もう一つ、目的を設定したのはそもそも誰なのか、テクニックを駆使してコントロールしようとしている当の主体は何なのかという問題があります。実はそれはエゴ、仏教でいう吾我だったということです。と言っても、エゴが実体的にまずあって、それがコントロールしているのではなくて、事実としてはコントロールという行為がエゴを心理的に立ち現わさせているといった方が正確です。エゴが在るのではなくてエゴという意識がある、つまり、コントロールがあるところにエゴという意識が生まれるのです。逆に、コントロールのないところにはエゴもないわけです。釈尊は瞑想も苦行も結局はエゴから出発しエゴが遂行していたことだったと気がついたのではないでしょうか。そして、エゴ、吾我を基にした瞑想や苦行から無我の行として坐禅に転換したのです。

努力が功を奏して求めているものをたとえ獲得できたとしても、それはエゴが自己満足、自己陶酔しただけのことではないか。本当の問題は自分の人生がそういうエゴに操られているところがあったという洞察から、エゴを乗り越えたところで出てきたのが坐禅だったのです。とすれば、坐禅はエゴのコントロールがすっかり脱落しているもの、あるいはそれを超越したものでなければならないことになります。

藤田一照著「現代坐禅講義」より一部抜粋


《藤田一照 一口コメント》
坐禅が無我の行であるというのは大事なポイントです。そこを押さえておかないと、坐禅はたやすく有我の訓練に変質してしまいます。しかし、ここで無我ということの理解が重要になってきます。よく、文字通りの無念無想状態が無我だと理解されていますが、これは間違いだと思います。無我というのはそういう心理的な状態のことではありません。心理的な状態は様々な条件で刻々変化しますから、まったく頼りになりません。そのときたまたまそうなったというだけのことですから、いくら素晴らしい状態になったところで、すぐにまた失われてしまいます。一時的な心理状態をつかまえて「おれはとうとう無我になったぞ!」と執着するというのは、当人としては大したことのように思えるのでしょうが、外から見れば滑稽というしかありません。

僕がよく言うように、坐禅は自分が経験できる狭い意識の範囲でとらえてはいけないのです。無我というのは自分が意識の対象としてつかむものではなく、意識以前の絶対的事実のことを指しているのです。我という他と無関係に単独で存在している実体は存在しないという事実のことなのです。われわれは脳の癖で、そこに「我」を幻出させて、その上で人生活動を始めてしまいます。坐禅をその人生活動以後の「もがき方」の一つである習禅にするのではなく、人生活動以前の無我の事実に帰り安住する「帰家穏坐」として行じるというところにこそ、坐禅の難しさも素晴らしさもあるのだと思います。



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