永平寺から毎月発行されている時報『傘松(さんしょう)』の中にある一照さんの連載記事、『「只管打坐」雑考』に一口コメントをつけてお届けします。

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【「只管打坐」〜「坐禅」をunlearnする〈坐禅〉〜2 】

この「○○」と〈○○〉の区別はもっと一般化することができるのではなかろうか。

たとえば、「感謝」と〈感謝〉の区別をしてみてはどうだろうか。

われわれはよく、感謝というのは、何かに対してそれをありがたいと思う気持ちだという説明を受けて、「~に感謝しなければならない」と教えられる。

しかし、このままでは感謝と言ってもそれは他律的に外から押し付けられたものにとどまっている。

自分と感謝の間に距離があって、いかにも「水臭い」。だから、そこには無理が伴わざるを得ない。

自分を強いて感謝する努力がいるのである。

こういうことが感謝だという基準が外にあって、それを自分に当てはめようとしている。だからプレッシャーを感じるし、重荷にすらなる。

感謝すべきはずなのに感謝できない自分を責めたりする。こういうあり方をした感謝が「感謝」である。

一方、自分はそれを受けるに値しないと思っているような、「有り難い」恵みを幸いにも一方的に与えられたような時に、われわれの胸の中に自ずと湧いてくる「ああ、なんとありがたい!」という気持ちには、そういう「水臭さ」や「プレッシャー」や「無理さ」がない。

自分が置かれた状況の促しによって、泉が湧き出るように、あふれてくる自然の感情だからである。

このようにして思いがけず発見された感謝が〈感謝〉だ。

人生においては、機が熟して「感謝」が〈感謝〉へと成長・脱皮していくこともあれば、知らないうちに〈感謝〉が「感謝」へと固化・風化していくこともあるだろう。


あるいは、「人生」と〈人生〉という区別をしてみるのも面白いかもしれない。

「人生」はたとえばその社会で標準とされているような男らしさ、女らしさを体現すべく、与えられた役割をこなす感じで生きられている他にしつらえられた人生、何かある目標のために努力する人生。

一方、〈人生〉はその人自身の内なる促しに従って、それに正直に生きられている、その人にしかできない人生、その時やっていることの他にどんな目的も意味も求める必要がないような人生、と言えるだろうか。

「自分」と〈自分〉という区別も同じように考えてみることができる。

読者のみなさんも、一種の思考実験として「○○」と〈○○〉の○○のところにいろいろな言葉を入れて比較・検討の作業をしてみていただきたい。

そうすることで、何か 洞察が得られるかもしれない。


「○○」と〈○○〉の区別ということで思い浮かぶのは、哲学者の鶴 見俊輔さんがエッセイのなかで書いていた“unlearn”という英語の動詞だ。

これについてはこの連載の中でもすでに触れているが(「只管打坐」雑考26)、わたしにとってはキーワードの一つなので繰り返しになるが再度紹介したい。


.....unlearnという言葉は誰から聞いたかというと、一八歳のとき、ニューヨークの図書館でヘレン・ケラーに会って聞いたんです。

ヘレン・ケラーは喋れないし、聞けもしないから、秘書がついている。

それが手で通信し、ヘレン・ケラーが何を言っているかをちゃんと口で伝えてくれた。

ヘレン・ケラーは私に話しかけた。

「あなたは何ですか?」と。

「私はハーヴァード大学の学生です」

「そうですか。わたしは隣のラドクリフで勉強しました。ラドクリフで実にたくさんのことを私は学びました。しかし同時に、大学を離れてから、それらの多くをunlearnしなければなりませんでした」。

そのunlearnと いう言葉は、ヘレン・ケラーが発した言葉です。何と日本語にしたらいいのか、よくわからないですが、「学びほどく」ということだと思います。

知識人とつき合っていると、習った通りをしゃべる人がいる。

そういうのは学びほどいていないんです。

だけど、そうではなくて、何か普通の日常生活の言葉として言い当てている人もいます。

それはunlearnした人なんです。......(『かくれ佛教』ダイヤモンド社) 


鶴見さんは、unlearnという言葉をその時初めて聞いたそうだが、意味はわかったという。

型通りに セーターを編み、それからそれをほどいて元の毛糸に戻して、自分の体に合わせて編みなおすという情景が想像された、と書いている。

そして「大学で学ぶ知識はむろん必要だ。しかし覚えただけでは役に立たない。それを学びほぐしたものが血となり肉となる。unlearnの必要性はもっと考えられてよい。」という示唆に富む言葉を残している。


この鶴見さんの議論をこれまでの話にリンクさせてみると、型どおりに編んだセーターのようなものが「○○」であり、それをほどいて元の毛糸に戻し自分の体にあわせて編みなおしたものが〈○○〉だと言えないだろうか?

「○○」をunlearnしたものが〈○○〉だということだ。

わたしが言いたいのは、もちろん、坐禅は「坐禅」ではなく〈坐禅〉へとunlearnされなければならないということだ。

それが坐禅修行の基本的方向性となる。

 

 

 

  

 

 

『傘松』、『「只管打坐」雑考』より一部抜粋