永平寺から毎月発行されている時報『傘松(さんしょう)』の中にある一照さんの連載記事、『「只管打坐」雑考』に一口コメントをつけてお届けします。

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【「只管打坐」坐禅すれば自然に好くなるなり1 】

 
わたしは二八歳の時に、大学院を中退して兵庫県の山中にある紫竹林安泰寺という曹洞宗の修行道場に、入山することを決意した。

それまで発達心理学という心理学の一分野の研究者として過ごしてきていたから、仏教や禅について系統的に学習したことがなかった。

その点に関して不安があったので、安泰寺に正式に上山する直前に、ご挨拶とお礼をするために、当時京都宇治の木幡に隠棲しておられた、内山興正老師をおたずねしたとき、「わたしは仏教系の大学で先生についてきちんと仏教教学を勉強していません。これから安泰寺で修行生活を始めるのですが、今後どうやって仏教の勉強をしていったらいいでしょうか?」と率直に尋ねてみた。

すると老師は「僕もね、澤木興道老師の元で出家するときに、あなたと同じような質問をしたことがあるんだよ。僕も西洋の哲学はちょっとやったけど、仏教学は全然学んでいなかったからね。その時、澤木老師が『ここに書いてある本を読んで勉強しなさい』と言って本のリストを手ずから書いてくださった。

だから僕も、その本のリストをあなたに書いてあげよう」とおっしゃって、そばにあったメモ用紙に万年筆で、澤木老師直伝の読むべき仏教書のリストを書いてくださった。


そこには、当時のわたしが見たことも聞いたこともない書物の題名が並んでいた。

『七十五法名目』、『観心覚鈔』、『華厳五教章』、『三論玄義』、『天台四教儀』、『秘蔵宝鑰』、『八宗綱要』、『正法眼蔵』、『永平清規』、『正法眼蔵随聞記』。

そして、「まず『天台四教儀』から始めて、それを丸覚えするつもりで何度も読みなさい。それができたら、残りの本を読むのがずいぶん楽になるから。もちろん『正法眼蔵』を始めとする道元禅師の書かれたものは全部ちゃんと読みなさい。一生かかるだろうけどね。僕からの注意として言っておくけど、道元禅師といったら『正法眼蔵』のことばかり言う人が多いけど、われわれ修行者は『永平清規』を決して忘れちゃいけない。『正法眼蔵』と『永平清規』は表裏の関係にあるからね。それから『正法眼蔵随聞記』も大事だ。僕なんかそれの岩波文庫版を何冊読み潰したことか......。」と言われた。


わたしは、安泰寺で暮らし始めてから、内山老師に教えていただいた本のリストに従って、参考書の助けを借りて、それらの本をこつこつと読んでいった。

今から思うと、このリストにあげられていた本は、いずれも奈良仏教、平安仏教と分類される日本の仏教各宗派の雛僧が、入門書として伝統的に読まされていた、『○○宗入門』といった感じの基本テキストだった。

ほとんど独学だったので、もちろん深いレベルまで理解できたとは到底言えないが、一応、倶舎宗、法相宗、華厳宗、三論宗、天台宗、真言宗といった鎌倉仏教が勃興する以前の、各宗派の教学の基本的アウトラインに親しむことはできたように思う。

それは今も自分が、道元禅師の書かれたものを読むための下地になってくれている気がしている。


さて、内山老師が「読み潰した」という非常に印象深い表現でおっしゃった『正法眼蔵随聞記』であるが、これは安泰寺に入ってすぐ、岩波文庫版の『正法眼蔵随聞記』を一冊手渡されて、「毎晩30分、同室の先輩僧と一緒に少しずつ読み進めていくこと。そうやって最後まできちんと読み終わるように。それがすんだら次は自分でまた読み返すように」という指示を受けた。

安泰寺の図書室には、あの薄手の岩波文庫版『正法眼蔵随聞記』が、たくさんストックされていて、なるほど、『正法眼蔵随聞記』を何度も何度も読みかえすことで、本の綴じが痛んでばらばらになるまで「読み潰す」というのが安泰寺の伝統になっているんだなと納得した。


あの時いただいた『正法眼蔵随聞記』は、今も手元にあって時々読み返している。

鉛筆の書き込みや傍線はいっぱい入っているし、見かけもかなりぼろぼろにはなっているが、まだ「読み潰す」には至っていない。

内山老師は若い時に何冊も読み潰したと「豪語」されていたが、それを思い出すと、まだろくに一冊も読み潰しができていない自分の不勉強に内心忸怩たる思いがする。


その『正法眼蔵随聞記』の中に「禅僧の能く成る第一の用心は祇管打坐すべきなり。

利鈍賢愚を論ぜず、坐禅すれば自然に好くなるなり。」という一節がある。

水野弥穂子先生の現代語訳によれば「禅僧がよくなる第一の秘訣は、ひたすら坐禅すべきことである。生まれつきのするどいのも鈍いのも、賢いのも愚かなのも問題にしないで、坐禅をすれば、おのずから立派になるのである。」(ちくま学芸文庫)という意味である。

実は昔からこの箇所には、ある〝引っ掛かり〞を感じてきた。

 

 

『傘松』、『「只管打坐」雑考』より一部抜粋