永平寺から毎月発行されている時報『傘松(さんしょう)』の中にある一照さんの連載記事、『「只管打坐」雑考』に一口コメントをつけてお届けします。

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【「只管打坐」「自分がやっている感」が少なくなるような坐禅の工夫 2 】

その筋道は、「自分がやっている感」が増大する方向にではなく、逆にそれが少なくなっていく方向に向かっていた。

それは自分で身心を緊張させてなにかを「やる」のではなく、「思う、意図する」だけで、後は身体という有機体がうまくやってくれるということを理解できたからだ。

「体という有機体は、意図を持ったらそれだけで、反応を返してくれます。そういうふうにデザインされています。だから『やろう』としなくても大丈夫。意図を持つこと、そのつもりになることだけでいいです」(石井ゆりこ『無駄な力が向けてラクになる介護術』誠文堂新光社)。

このことを理解してもらうのに、わたしがよく持ち出すのは、次のような例だ。


ある人に手紙を出すのに、わたしがやるべきことといえば、先ず伝えたい内容を文章にして書くこと、それを封筒に入れて正しい宛名を書き、所定の切手を貼ってしかるべきポストに投函すること、それだけで十分である。

それ以降のことは郵便配送システムがちゃんと働いて、間違いなく先方に手紙を届けてくれるから、それにまかせておけばいい。

「意図を持つだけ」というのは手紙を書いて、宛先を指定し切手を貼って投函することに当たり、「やろうとしなくても大丈夫」というのは、すでに完備されている郵便配送システムの働きが、後はすべてやってくれるのにまかせるということに当たる。

しかし、われわれは往々にして、思う、意図すること以上にやろうとしすぎることが多い。

先ほどのたとえで言うなら、郵便配送システムに任せることができないで、自分で手紙を先方まで届けようとしてしまうのである。

そして、やろうとしすぎて、かえって身心を固め不必要に緊張させてしまう。

われわれが坐禅をするときに経験するいろいろな困難の多くは、もしかしたらそういう「いきすぎ、やりすぎ」から生じているのではないだろうか?

自然の働きに任せることが上手にできれば(「身も心もはなちわすれて、仏の家になげいれて、仏のかたよりおこなはれて、それにしたがひもてゆくとき」『正法眼蔵生死』)本来うまくいくはずのところを、こちらでコントロールしようとしすぎることによって、かえってうまくいかなくしているのである。

意図を持つだけで、やりすぎないこと。

そのことで坐禅がずいぶん変わってくるのではないだろうか?


今、ここで書いているようなことを、わたしはアメリカにいる時に受けた、アレクサンダー・テクニークのレッスンを通して学んだ。

アレクサンダー・テクニークを創始した、F.M.アレクサンダーは「人が何かをしているとき、頭と背骨全体のダイナミックなつながりを縮めたり圧迫して邪魔していなければ、その人全体がうまく働く」ということを発見し、その洞察を基にして、「自分自身の上手な使い方」を指導する方法を編み出した。

それがアレクサンダー・テクニークだ。

わたしがアメリカの禅堂に住持として住んでいた時、ある日の坐禅会で、いかにして楽に坐るかというテーマで参禅者たちと議論していた。

すると、遠くから坐りに来ていた一人の女性が「あなたは、アレクサンダー・テクニークというものを知っているか?」と発言した。

「いや、知らないけど」と返事をすると、「きっとこのあたりにも、それを教えてくれる人がいるから、是非レッスンを受けるといいですよ。あなたの問題意識にすごく参考になると思うから」と勧めてくれたのだった。

当時は、インターネットなどなかったから、ティーチャー(アレクサンダー・テクニークでは指導してくれる人をそう呼ぶ)を探すのに苦労したが、幸い友人が地方新聞の広告の中にチェロを教えている人で、アレクサンダー・テクニークのレッスンもやっているという人物を見つけてくれた。

その人から、都合5回ほどのレッスンを受けたが、そこで一番印象に残ったのが、今論じている「やることと思うこと」の区別だった。


レッスンでは「首を固めるのをやめましょう」とか「上向き方向に行きましょう」といった「こうしろ」という言い方はせずに、「首を固めるのをやめようと思ってください」とか「上向き方向を思ってみましょう」という表現がなされるのだ。

それは、意図は持つが、やりすぎない、ということをとても大事にしているからだ。

最初はこの違いがよく呑み込めないで、よく「やってしまった」り、自分はちゃんと意図できているのだろうかとか、意図した通りに上手くいっているのだろうかとかを気にしたりしていた。

その都度、ティーチャーが手で触れたり言葉をかけてくれることでその「やりすぎ、いきすぎ」に気づかせてくれるので、だんだん「意図を持つだけ、そういうつもりになるだけでオーケー。それ以外のことは気にしなくてもいい」というあり方がわかるようになってきた。

習慣的な動き方より、ずいぶん少ない努力で動ける場合が多いので、こちらとしては「あれ、こんなのでいいのかな?」と不安にすらなってしまう。

「自分が(何かを)やっている感」がどんどん希薄になるのである。

その違和感に耐えられず「やっている感」が得られるまでやると、それはたいていやりすぎになっている。

 

 

 

 

 

 

 

『傘松』、『「只管打坐」雑考』より一部抜粋