永平寺から毎月発行されている時報『傘松(さんしょう)』の中にある一照さんの連載記事、『「只管打坐」雑考』に一口コメントをつけてお届けします。

----------------------------------------------------------

 

このエピソードは無量無辺の坐禅を人間の思わく(思いの枠)にはめ込んでわかろうとする人間の「こざかしさ」を示す好例としてわたしの記憶に残っている。

さて、チョイスレス・アウェアネスのことをもう少し立ち入って考察してみよう。

そこではもはや呼吸のような、注意を向けるためのあらかじめ選定された特定の対象はなく、ただ自分自身の刻々の体験の流れだけが気づかれている。

ともするとよそ見をしがちな心(モンキー・マインド)を叱咤激励して注意を特定の対象に向け続けるという意図的な努力は脱落している。

だから何かをめざして一生懸命に努力しているという感じではなく、現在に静かに安らかに住まっている(現在安住)と言った方がぴったりくるようなあり方なのである。

坐禅の伝統には、そういう境地に関して「帰家穏坐(ほんとうの家に帰って穏やかに坐っている)」というまことに的を得た表現が伝わっている。

そこには「アジェンダ(計画、予定表)」もないし事前に設定された到達目標もない。

アジェンダを設定するというのはわれわれが普段いつもやっていることで、それによって日常生活が駆動されていると言ってもよいくらいだから、それを一時的にせよ棚上げにするというのは、そのいつもの癖の「勢い」が強いだけになかなか難しい。

しかし、坐禅においては「作仏を図る」ことも含めて一切の「図りごと」を保留しなければならない。

眼耳鼻舌身意の六根を通して経験する一切がawareness(気づき 漢訳語では「覚」とか「覚触(かくそく)」に相当するのではなかろうか)の中で刻々に生起しているだけなのだ(実は何が起ころうとわれわれはこの気づきの外に出ることはない。

すでにその気づきの中に生きているのだから、この気づきには気づこうというこちら側の努力は本来いらないはずなのだが、奇妙なことにそのことに気づくのにわれわれはさんざん苦労するのだ)。

自ずからに展開している刻々の経験に対してこちらの都合に合わせて、何かを付け加えたり、何かを取り除こうという余計な作為は一切差し控えられている。

解釈や説明や分析、承認とか否認、取捨選択、価値判断なども加えない。

何が起きてこようとも、万事オッケーなのである(『普勧坐禅儀』には「万事休息 不思善悪 莫管是非」とある)。気づきの中に起きてきたことに対して尻込みをしたり、巻き込まれたりということがない。

「覚」という質を持った「開け(openness)」、「空間(space)」の中にすべてをありのままに在らせ、起滅させておく。

鏡が火を映しても燃えることがないように、経験の起滅によってこの「空間」に動揺が起きることはない。

「今の瞬間に起きていることは起きていることとしてそれで完結しており、それ以外ではあり得ない絶対のもの」として全面的に受容し、その経験が別様であることを望まない。

だから、チョイスレス・アウェアネスのことを説明するのに「諸行無常の流れに手を突っ込んでその流れに影響を与えようとするのではなく、その流れと一枚になって(実際はもうすでに一枚になっているのであるが)、無常を無常させておく」というような言い方がなされるのである。

自分が何かをチョイスするのではなく、人生が自分に代わってチョイスしてくれているのを許して、それを素直に受け取っていくだけだ。

ラリーさんはチョイスレス・アウェアネスを交響楽団の演奏を聴くことにたとえている。

注意深く聴いていると、一つの楽器だけがあるいは一つのセクションだけが優勢になっている時もあれば、多種類の楽器が同時に演奏されている時もある。

美しく心を和ませるメロディの時もあれば耳障りな不協和音が聞こえてくる時もある。

全く音のしない静寂の時もある。

オーケストラ全体の音に注意が広がるときもあれば、一つの楽器の音に注意が集まるときもある。

われわれは選り好みせずに聞こえてくる音を聴くだけだ。チョイスレス・アウェアネスでもそれと同じように、はっきりと覚めてさまざまに展開していく「ショー」の全体が「観えている」のである。

そのようなことが可能な態勢として正身端坐が強調されているのではないだろうか。 

次回は、チョイスレス・アウェアネスについての論考の締めくくりとして、そこには「自分がそれをしている」という意識がない、ということについて論じることにする。

 

『傘松』、『「只管打坐」雑考』より一部抜粋