【坐禅講義5】序講:パスカルの驚愕と歓喜
藤田 一照 藤田 一照
2017/04/10 13:05

【坐禅講義5】序講:パスカルの驚愕と歓喜

只管打坐(しかんたざ)の坐禅についての最も端的な説明の一つだとわたしが常々思っているのは、『大智禅師仮名法語』の中の「生死の大事を截断(せつだん)すること、坐禅にすぎたる要径なし。いわゆる坐禅は、しずかなる処に蒲団一枚を安じ、その上に端身正坐して、身になすことなく、口にいふことなく、意(こころ)に善悪をはからず、唯しずかに坐して壁に面(むか)ひ坐して日をおくる。この外に何の奇特玄妙の道理なし」という一節です。人が部屋でゆっくり休息しくつろいでいることができない、という一つの事にあらゆる不幸の原因があると言ったパスカルが、くつろぐことを修行として行なう坐禅という実践法があることを知ったらきっとまず、「信じられない! 人が何もしないでじっとくつろいでいることができるようになる可能性を、わたしみたいに『人間にはそんなことできるはずがない』とあきらめてしまわずに、積極的に探究し深く掘り下げてきた宗教伝統があったなんて!」と驚愕し、そして「ああ、なんとありがたいことだろう。ただ純粋に今ここに在ることをこれほど簡素にしかも美しく実現してくれる坐禅という修行法が伝承されてきているとは! ここには人間の不幸を根本的に解決する道がある。わたしはまさに、こういう実践を探していた、それがとうとう見つかった!」と歓喜したことでしょう。

人間の不幸についての観察と思索を深め、冒頭の引用のような洞察を得るところまでぎりぎり煮詰まっていたかれなら、坐禅のなんたるかを理解することができる機がそこまで熟していたかれなら、大智禅師によるこの坐禅についての短い一節を聞くだけでも、坐禅が全く単純そのものであると同時に決してありきたりの行いではなく、人間がなしうる最も崇高で深遠な営みであることをすぐさま直感できたのではないかとわたしは想像するのです。

藤田一照著「現代坐禅講義」より一部抜粋

〔藤田一照 一口コメント〕

「くつろぐ」、「安らう」ということを「仕事」にしてしまう人がいます。あらゆることを、成し遂げなければならない何かとして、あがき、もがきの対象にしてしまう「癖」があるんでしょうね。実は僕もその一人です。自分が、一生懸命あがいていることを一種の快感のように感じるところがあるようです。こういう人は、人生そのものを「仕事」のイメージで見てしまいかねません。抵抗に対して抗っていないと生きている気がしないのですから、くつろぎ、安らうことなど考えられません。くつろぎ、安らいというのはあがき、もがきが止んでいることなのですから。澤木興道老師は、坐禅のことを「打ち方やめ!」という兵隊の用語で表現していました。何かに当てようとして銃をバンバン打ちまくっているのがわれわれですが、さて、「打ち方やめ!」という号令を自分に向かって出せるでしょうか?また、出したとしてもその命令をちゃんと実行できるでしょうか?「やめる」を実行するというのは「する」を実行するのとはまた違った難しさがあるようです。

 

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