永平寺から毎月発行されている時報『傘松(さんしょう)』の中にある一照さんの連載記事、『「只管打坐」雑考』に一口コメントをつけてお届けします。

----------------------------------------------------------

貪欲蓋、瞋恚蓋に続く五蓋の第三は惛沈睡眠蓋(こんちんすいみんがい)、読んで字の如く、「心が沈んで眠くなること」である。

パーリ語ではthinamiddha(thinaは沈鬱、middhaは眠気の意)に当たる。

厳密には二つの異なる心的特質を指しているがお互いに類似の影響や性格を有している(どちらも心の沈みをもたらす)ので、五蓋という煩悩の類別システムの中では一つにまとめられて扱われている。


内山興正老師がよく「考え事を続ければそれは考え事をしているのであって、坐禅しているのではないし、居眠りをすればそれは居眠りしているのであって坐禅しているのではない。自動車運転と同じで居眠り運転では生命が呆けてしまうので危ないし、考え事運転では生命が凝ってしまうので、これも危ない。居眠りせぬよう、考え事にならぬように、生き生きと覚めて安全運転でいかなければならない」とおっしゃっていたが、惛沈睡眠蓋は坐禅を自動車運転に例えるなら「居眠り運転」のようなものにし てしまうのだ。

これが順番として第一貪欲蓋、第二瞋恚蓋のすぐ後に置かれているのもそれなりの理由があるように思われる。

一つには、貪りや怒りというものは人が持つエネルギーをむやみやたらに消費するものなので、そういう状態が長く続いた後には、多くの場合、活力が使い果たされてしまい、疲労や退屈が襲ってくるからである(貪りや怒りを維持するためにはそれ相応のエネルギーが必要であることは、断食をしたり、あるいは病気をしたりして、エネルギー・レベルが普段よりもガクンと落ちてくると、別に無理して抑えているわけでもないのに貪りや怒りを起こそうと思っても起きなくなることからもわかるだろう)。

また二つには、前回も述べたことだが、恒常的な貪り(=過剰な欲望)や怒り(=過剰な敵意)という強烈な刺激物(だから両者を「魂のカフェイン」と呼んだ)に依存して自分を奮い立たせ、そのおかげでシャンとして生きているような人たちは、何かの理由で自分の外に貪りや怒りを正当化するような事情が無くなると、むさぼりや怒りを起こせなくなって、その途端に「意気消沈」してしまったり、しょんぼりしたり、なかには抑鬱的にすらなってしまうことがあるからだ。

エネルギーの枯渇がその理由にせよ、エネルギッシュに生きるための刺激や動機づけの欠如がその理由にせよ、坐禅をしていて、何かがこうあって欲しい(あるいは何かがこうあって欲しくない)という突き上げるような強い衝動の度合いが低くなってくると、今度は惛沈睡眠蓋が生じてきて、坐禅修行者を生き生きとした坐禅の営みから引き離し、うとうととした居眠りへと陥らせようと働きだしてくるのである。

惛沈睡眠蓋とは修行者のやる気をくじき、坐禅をちゃんと続けようという努力を妨げるように働く力のことだ。

それは実際にはいろいろな現れ方をする。

「惛沈」はどちらかというとからだから活力が抜けてしまったような状態を指し、からだが重く鈍く感じられ、気力が湧かず、疲労感が感じられ、坐禅を維持する力が弱まってしまう。

「睡眠」の方はどちらかといえば心的エネルギーがレベルダウンしたり欠如した状態を指し、こころの働きが鈍り、意識に雲がかかったようになり、やる気がなくなり、容易に思考の中を漂うようになる。

惛沈睡眠蓋に覆われているときは、あたかも深い泥の中を重い足取りで歩いていくときのような感じがする。

ときには自分がそういった状態に陥っているということすら自分自身で気づくことができないほどひどくこの蓋に覆われてしまうこともある。

坐禅をする者ならば誰しもそのような難儀な経験を何度もしてきているのではなかろうか? 

自然で生理的な眠気や疲労は惛沈睡眠蓋とは区別する必要がある。

普段目が回るように忙しく、スケジュールに追い回されるような生活を送っている人が坐禅するとまずたいていは眠気や退屈感に襲われる。

そういう人は他人とのやり取り、何杯ものコーヒー、インターネットとの接続、...といったような外から来る刺激や緊張のエネルギーを主要な燃料にして自分を覚醒させているからだ。

だから坐禅をする時のように静かで気を紛らすものが最小限にまで取り除かれている場に坐ると、眠気や退屈感があたかも「禁断症状(麻薬・アルコール・ニコチンなどの慢性中毒となった者が、急にその摂取を中断した場合に起こす精神的、身体的症状のこと)」のように出てくるのである。

しかしこのような単純な眠気は時とともにいずれは通り過ぎていく。

徐々に自分の内部にある活力源につながることができるようになり、外からの刺激に依存しなくても心の覚醒度を上げることができるようになってゆくからだ(もちろん、真剣に坐禅する気で坐禅に取り組んでいなければそういうことは起こらないが...)。

『傘松』、『「只管打坐」雑考』より一部抜粋