永平寺から毎月発行されている時報『傘松(さんしょう)』の中にある一照さんの連載記事、『「只管打坐」雑考』に一口コメントをつけてお届けします。

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【「只管打坐」坐禅の別名は「帰家穏坐」1 】


瑩山禅師の『坐禅用心記』の中に「仏の言く『聞思は猶お門外に処するが如く、坐禅は正に家に還って穏坐す』と。

誠なる哉、夫の聞思の若きは、諸見未だ休せず、心地猶滞す、故に門外に処するが如し。

只箇の坐禅は、一切休歇し、処として通ぜずということ無し、故に家に還って穏坐するに似たり。」という興味深い一節がある。

ここにある「聞思」というのは、仏法を向こう側に置いて、それについて他から聞いたり、自分で考えをめぐらしたりすることを意味しているが、それでは未だ、ああだ、こうだ、ああかもしれない、こうかもしれないとさまざまな見解や、憶測が錯綜しておさまりがつかず、あたかも門の外にいて、内側の家についてのうわさばなしをしているだけのようなものだと言われている。

聞思というのは、聞慧・思慧・修慧という「三慧」のうちの二つを指しているのだろう。

他から教法を聞くことによって得られる智慧もあれば、教法を思惟観察することによって得られる智慧も確かにあって、その二つは仏道修行において必要条件ではあるのだが、それだけではまだ十分ではない。

門を通って内側の家の中に入って、直接に親しく仏法に浸るためには修慧にまで進まなければならない。

普通には聞慧や思慧という基礎があって、その上に初めて修慧が可能になるというように、聞や思が積極的に奨励されるような言い方がされることが多いのだが、ここでの言い方には聞や思という営みが、かえって仏法という本来の住処(家)の中から、われわれを門の外へと連れ出してしまうことになっているのではないか、とどこか批判的なニュアンスが込められているようにわたしには感じられる。


だから、聞や思が修の代りになるかのように錯覚して、身心を挙げて実際に仏道を修することを、怠りがちなわれわれへの訓戒とも受け取れるのだ。

瑩山禅師は、仏道修行が聞や思のところで滞っているのはあたかも門の外にいて、家の中のことを推測で云々しているようなものだと言う。

その結果として「諸見未だ休せず、心地猶滞す」という困った状態に陥ってしまうのだ。

わたしはだいぶ前に「道」というメタファーについて、次のような短い文章を書いたことがある。


「道。

それは、ある地点とある地点をつなぐ通路のこと。

誰の眼にも見慣れたごくありふれた風景の一部だ。

われわれはいたるところで道にでくわす。

広い道、狭い道、まっすぐな道、曲がりくねった道、舗装された道、土の道、公道、私道...。

毎日、さまざまな道を歩いて人は移動し、生活している。

しかし、そもそも、人間にとって道とはどういう意味をもつものだったのだろう?

道を歩くとき人はそこで何を経験しているのだろうか?

『ふと気がつくと、わたしは道を見失い、暗い森に迷い込んでいた。...』ダンテは『神曲地獄篇』をこう書き始めている。

道の人間的意味を探るために、われわれも彼にならって道を見失ったところから出発してみよう。

...暗い森の中にぽつんと立っている自分。

いったいどちらへ向かって進んでいけばよいのか皆目わからない。

しかし、そこにじっとたちどまっている訳にもいかない。

とにかく歩き出す。自分はいったいどこへと向かっているのだろう...おなじところをぐるぐる回っているような気がする...。

下草や岩、つた、いばら、小枝、倒木などがしばしば行く手をさえぎる。

必死の努力をしているにもかかわらず障害物が邪魔をして思うようなペースで前進することができない。

こんなのろのろした調子じゃあ、いくらも進めやしない...ああ、また雑木が先をふさいでいる...強烈な孤独感と不安感が胸のなかで次第に黒雲のように広がっていく。

このまま誰にも会わなかったら...もうだめかもしれない...。

そんな状態がどのくらい続いただろう。

思いがけなく森が途切れて広場になっているところへ足を踏み入れた。

そこは陽の光が差し込みとても明るい。

周りを見回すと、それは左右にずっと続いているではないか。

ああ!助かった。

道だ!...こうして、幸運にも道を見出した。

わたしはその道にそって歩き始める。

道を見失いあてどもなくさ迷い歩いている状態を抜け出して道を見つけそれにそって一歩一歩歩いている状態へ。

そのとき何が変わったのか?道は何を与えてくれたのだろう?」


読者のみなさんも、自分が道を見失って暗い森の中を一人でさ迷っているところを思い浮かべていただきたい。

そのような時には、こちらに行けばいいのか、あちらに行けばいいのか、ああすればよかったのではないか、こうすればよかったのではないか、今自分はどこにいるのか、正しい方向に向かっているのか、もしかしたらどこにも辿りつけず死んでしまうのではないか、......とまさに「諸見未だ休せず、心地猶滞す」である。

仏道修行においても森の中をさ迷うのと同じように、自分の頼りない勘に頼ってみたり、尊敬できると思われる人たちの語る言葉に、答えを見つけようとしたり、行き止まりの道なのにそれでももしかしたらなんとかなるかもしれないとあれこれしつこく調べたり、よろめくように歩みを進めたり、当て推量で方向を決めたり、あきらめそうになったり......そういう状態の時がある。

これもまた立派に修行の一部であり、糧となることは間違いないのだが、その時点ではまだ道を見いだせず森の中を、手探りでさ迷っているにすぎないということもまた間違いのない事実である。

 

 

 

『傘松』、『「只管打坐」雑考』より一部抜粋