(前回の講義)

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 今回は「凡(おおよ)そ夫(そ)れ、自界他方、西天東地、等しく仏印(ぶっちん)を持し、一(もっぱ)ら宗風を擅(ほしいまま)にす。唯、打坐を務めて、兀地(ごっち)に礙(さ)へらる。」の箇所についてお話ししましょう。


「凡(おおよ)そ夫(そ)れ」というのは「だいたいにおいて」という意味です。

自界はわれわれがいま住んでいる世界、つまりこの娑婆世界のこと、他方はそれ以外の世界のことですが、仏教では、一人の仏に一つの世界ということになっているので、自界は釈尊、他方は例えば東方薬師如来、西方阿弥陀如来といった他の世界の仏を意味します。

西天はインドのこと。

中国の西に当たり、天竺とも言われていたからです。

東地はインドの東側で中国のこと。

ここも場所をもって仏や祖師たちを指しているので、「自界他方、西天東地」で釈尊初めあらゆる仏たち、インドから中国に及ぶ仏祖たちを意味します。

「仏印」は仏心印の略で、仏祖たちは誰もが「仏、仏に伝えてよこしまなることなき涅槃妙心の割り符」を共通にもっているということです。

「一」は「もっぱら」と読み慣わしていますが、「等しく」と同意で「皆(みな)」ということです。

「宗風をほしいままにする」というのは、無上の仏として自由自在に活動することを指します。

|それを具体的に言ったのが「唯、打坐を務めて、兀地に礙へらる」ということで、それこそが、千仏万祖のあり方なのです。

「唯」は他にはないということを強調する表現で、ただただ坐禅に力を尽くし、兀地=坐禅に邪魔されるように、どこへ逃げても坐禅がついてきて離れられないというくらい、坐禅と自分が親しく融け合って一体になっている。

それを「礙へらる」と表現しています。

曹洞宗の伝統では「自分が坐禅するのではない。坐禅に坐らさせられるのだ」と言います。

澤木興道老師は「坐禅ににらまれ、坐禅に叱られ、坐禅に邪魔され、坐禅にひきずられながら、泣き泣き暮らすということは、もっとも幸福なことではないか。」という言葉を残しておられますが、まさに「兀地に礙へらる」ということを見事に言い表していると思います。

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