(前回の講義)

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今回読むのは「かくのごとく身心をととのへて、欠気(かんき)一息あるべし。兀兀(ごつごつ)と坐定して、」というところです。

これまで坐り方や呼吸について、述べてきたことを総括して「かくのごとく」と言い、それによって「身心をととのへて」と坐禅のねらいをまとめています。

道元さんは「身心をととのへてもって仏道にはいるなり」と『学道用心集』の中でも言っていますので、私は坐禅を身心を調える稽古として、理解するのが一番いいのではないかと思うようになりました。

ブッダが『ダンマパダ』の中で「調えられし自己こそ真の拠り所である」と言っているのも、その根拠になっています。

道元さんは、真の拠り所のことを「畢竟帰処(ひっきょうきしょ)」と呼びます。

調えられし自己=畢竟帰処=坐禅=自己の正体、という等式が仏教の核心ではないかというのが私の考えです。

「欠気」というのはあくびのことですが、ここでは口を開いて息を一息吐き出すことを意味します。

いきなり坐禅をするのではなくて、まず深呼吸をして、それまでの呼吸のリズムをいったんリセットするということだと思います。

ここには書いてありませんが、『普勧坐禅儀』にはこの欠気一息の他に、上半身を左右に揺らす左右揺振という動作についての記述ありますが、これも身体のリズムのリセットをねらっているのでしょう。

「兀兀と坐定して」の「兀」は、「山のように動かない様」とよく説明されます。

確かにそういう意味でもいいと思いますが、私は「一心に物事にうちこむさま」という方の意味を取り、動かない様の方は「坐定」に含めたい気がします。

坐禅が兀坐と言われる場合は、外的には動かない様、内的には一心に打ち込んでいる様という身心両方の意味を含んでいると考えます。

 



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