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[序講4] くつろぎと坐禅
藤田 一照 藤田 一照
2017/04/10 13:00

[序講4] くつろぎと坐禅

さて、坐禅に関わりのなさそうな話をながながとしてきましたが、ここからやっと坐禅の話に入っていきます。

われわれが坐禅を行じるということは、パスカルが言った「あらゆる人間の不幸を引き起こすただ一つのこと」を乗り越えていることになります。それは坐禅がくつろぐことそのものだからです。くつろぎの純粋なかたち、あるいはくつろぎが結晶化したものとさえ言えるかもしれません。「絶学無為の間道人」の姿そのものです。わたしがキーツならきっと言うだろうとさっき述べた「何もしないで、そこに坐ってくつろいでごらんなさい。そこから新しい何かが始まるかも知れませんよ」というアドバイスを真に受けて、まさにそれをストレートに、徹底的に洗練されたやり方で実践しているのが坐禅です。

さらには、そういう坐禅のなかで「部屋のなかで安静にしていることができる力」、つまり「くつろぐことができる力」が最高度に洗練されたやり方で自然に醸成されているのです。くつろぎのなかでくつろぐ力量がさらに身についていくと言ったらいいでしょうか。しかし、次のことは強調しておかなければなりません。それは、坐禅をしている当人には、「さあ、これからくつろぐぞ」とか「くつろぐ力を身につけよう」といった目的意識や「かくかくしかじかの方法を駆使して、うまくくつろいでやろう」とか「これこれこういう具合にして、くつろぐ力を強くしよう」というような目論見やはからいが全くないということです。くつろぐという結果や効果を一切忘れて、ただ単純に坐禅しているだけです。それだからこそ、自然なくつろぎがいつのまにかそこにおとずれてくるのだし、知らないうちにくつろぐ力が自ずと育っていくのです。目的意識やはからいを坐禅のなかに持ち込むとたちまちに、坐禅がくつろぎではなくなり仕事になってしまうので、くつろぐどころか身心に緊張やあせりが生まれてしまい、かえってそういう力が育たなくなってしまいます。ここまでの話を理解していただいた方にはもうその理由がおわかりでしょう。

くつろぎ、つまり目的意識やはからいのない状態を目的意識やはからいによって作り出すことはできないのです。たとえ目指していたくつろぎが手に入ったとしても、くつろごうとしてくつろぐのと、結果として知らないうちにくつろいでいるのとでは大きな違いがあります。前者の方のくつろぎではそれを達成、維持するのに多くの力が費やされているのに対し、後者のくつろぎは「自ずとそうなっている」だけなのです。ましてや、坐禅をくつろぐための方法や手段だと考えるのは全くの的外れです。坐禅自体がくつろぐことそのものとして理解され、そのようなものとして正しいやり方で行じられなければなりません。坐禅して、それからあらためてくつろごうとする努力が始まるのではなく、坐禅をするそもそものはじめの一歩からすでにくつろぐことになっていなければならないということです。最初の一歩の方向が見当違いならいくら前に歩いてもみんな間違いになります。

ですから坐禅における工夫や努力はポジティブ ・ケイパビリティを発揮して行なう普通の「〜をする」努力とは質的に違い、 ネガティヴ・ケイパビリティ主導の「〜をしない」、「〜をやめる」努力なのです。英語でいうならdoingモードではなく、undoing モードということになります。道元が出家、在家を問わず全ての人に普く勧めた坐禅は、まさにこのような坐禅なのです。さっき言ったようにわたしがパスカルにぜひ教えてあげたいと思い、また今回の講義でお話しする坐禅とはこのタイプの坐禅に他なりません。同じような格好の坐法で坐るもののその上さらに、公案にとり組 んだり、呼吸や身体感覚などこちらがあらかじめ指定した特定の対象を観察したり、こころのなかでマントラを唱えたり、視覚的イメージにこころを凝らすといった他のタイプの坐禅と特に区別するときには「只管打坐」、あるいはただ単に 「打坐」と呼ばれる、そういう坐禅です。そのように呼ばれるのは、作法にのっとってただ正身端坐(正しい坐相で坐ること)をねらってひたすら坐ることに徹底する坐禅だからです。

このような坐禅はまたの名を 「帰家穏坐」(自分の家に帰って安穏に落ち着くこと)」とも言います。まさにその表現からして、「人間のあらゆる不幸は安らかにくつろげる”家”を持たないことから生まれてくる」とパスカルが指摘した不幸の原因におそろしいくらい符号しているではありませんか。ゆったりとくつろぐことができる、われわれにとっての本来の家、つまり本来の自己に帰って穏やかに坐ること、それが坐禅なのですが、こういういかにも地味な坐禅のことは、あいにくのところまだ一般にはよく知られていないというのが私の印象です。こういう坐禅の実態は通俗的な理解とはかなりかけ離れているところがあって、常識の枠組みの中にはおさまならないのです。

このように道元禅とパスカルの問題意識には非常な親近性があることを思えば、坐禅に出会うはるか以前にパスカルに共感していたわたしが、後に道元禅の世界に飛び込むことになったのもあながち偶然とは言えないものがあります。今になって振り返ってみれば、自分のなかでかたちにならないままもやもやとしていた人生上の疑問が、パスカルの『パンセ』のなかで見事に言語として表現されていることを発見し、道元禅のなかにその疑問を解きほぐしていく道筋があると直感した……どうもそういうことだったようです。

藤田一照著「現代坐禅講義」より一部抜粋

〔藤田一照 一口コメント〕

AのためにBをする、という文脈でなされる行為は、Aが目的、Bが手段になります。手段-目的という二段に分かれた行為のあり方は、われわれの生活のなかに蔓延しています。勉強も仕事も、それ自身のためというよりはそれ以外の目的のための手段になっているのではないでしょうか?いい学校に入るための勉強だったり、出世するための仕事だったり…。それが当たり前だと考えている人が多いかもしれません。しかし、こういう考え方だと必然的に、目的が達成されなければ、その行為は失敗ということにならざるを得ませんし、無意味になってしまいます。そして、いつも目的までの距離を気にしながら、手段としての行為をすることになりますから、勉強や仕事に打ち込むべきエネルギーがそれに費やされてしまいます。これに代わるような、勉強や仕事の仕方はないものでしょうか?実は、坐禅は手段と目的が一致している、あるいは手段-目的という思考法自体を乗り越えている、そういう行為の実例なのです。

 

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