永平寺から毎月発行されている時報『傘松(さんしょう)』の中にある一照さんの連載記事、『「只管打坐」雑考』に一口コメントをつけてお届けします。

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【「只管打坐」坐禅すれば自然に好くなるなり3 】

さて、「坐禅すると自然に好くなる」と表現されている、坐禅に伴う変容のことに話題を戻そう。

さっき、良い睡眠がとれていれば回復が早い、と言った。

これを逆に言えば、一定時間の睡眠をとってもこれといった回復が見られない時は、その睡眠のどこかに何らかの問題があるということを意味している。

だとすれば、その問題がどこにあるのかを見つけ出して、睡眠の質を良くするような適切な手立てを講じなければならない。

それと同じように、坐禅をしているのに「自然に好くなる」ということが起こらないのならば、それは坐禅のどこかに間違いがあるということになる。

だとすれば、どこにどのような問題があるかを探して、坐禅の質を良くするような有効な手立てを講じる必要があるということだ。

この意味合いからも、「坐禅をしていると自然に好くなる」と言う時の「好くなる」の内実を明らかにしておかなければならない。

そうでなければ、好くなっているのかそうでないのかの見極めをつけることができないことになり、結局のところ自分が行じている坐禅が、坐禅とよばれるのにふさわしいものになっているのかどうかを、知るすべがなくなってしまう。

それでは坐禅に対して無責任というものではないだろうか。


睡眠に関して、「寝ればそれでよい」という一面と同時に回復力の有無、大小によって睡眠の問題点を知り、睡眠の質を向上させることができるというもう一つの面があるように、坐禅に関しても「坐ったらそれでおしまい」という一面と同時に「禅僧を自然に好くする」力の有無、大小によって坐禅の問題点を知り、坐禅の質を深めることができるという、もう一つの面があるのだ。

曹洞宗の坐禅についての論議では、この後者の面への掘り下げが、まだ十分とは言えないのではないだろうか。

自分にそれがどこまでできるかわからないが、これからの論考でそのあたりのことを考察してみたいと思っている。


睡眠には「脳を休息させる」、「成長を促し、疲労を回復させる」、「健康を維持する」などといった、さまざまな効能があると言われている。

しかし実のところは、睡眠という一つの有機的な営み全体の、さまざまな側面を取り上げて多角的に論じているだけで、脳の休息、成長促進、疲労回復、健康維持は相互に密接に関連し合っているはずで、別々に起きているのではないだろう。

それと同じように、「正身端坐(調身)のなかで鼻息微通(調息)と非思量(調心)が同時進行している」坐禅も一つの有機的な営みであるから、それがもたらす変容も幾通りもの言い方で表現されたとしても、それらは相互に密接に連関し合って「禅僧が好くなること」の全体を豊かに形作っているのだろう。 


今回の論考では、その「良くなること」、つまり坐禅がもたらす「好き」変容の諸側面のうちのまず一つを取り上げて、それについて書くのが当初の予定であったが、そのための序説に当たる部分が長くなりすぎてしまって、誌面の関係上充分な展開ができそうにない。

残りの許された字数の範囲で、それがどのような側面かということについて、概略だけを述べて次回へと持ち越すことにしよう。

坐禅をしていると、何が自然に好くなるのかという問いは、坐禅をしているときに自然に培われているものは何かという問いでもある。

それを解明する一つの方法は、日常のあり方と坐禅の時のあり方を対照させてみることである。

もしそこになんらかの違いが見出せるなら、坐禅のときにはその違っている点が培われて、それが「好き変容」の一側面として、修行者の佇まいの中に現れてくると言うことができるだろう。

こういう視点から坐禅を見なおしてみる時、わたしがまず注目する対照的な点は「心が境界線によって仕切られているかどうか」ということだ。

普段われわれの心は、さまざまな境界線によって細かく仕切られているが、坐禅の時はその仕切りが脱落するか、薄くなってより統合された心にシフトしている。

詳しい議論は、次回に回さなければならないが、問題はこのシフトがないままで、相変わらず仕切りを維持したままの心で、坐禅に取り組んでいる場合がしばしばあるということだ。

『普勧坐禅儀』の冒頭にある「道本円通争仮修証」は、まさにこの点に関わる一句であり、円にして通である道本に相応しい仕切りのない心で、坐禅を始めなくてはならないことが示されているのだ。

 

 

 

 

 

『傘松』、『「只管打坐」雑考』より一部抜粋