永平寺から毎月発行されている時報『傘松(さんしょう)』の中にある一照さんの連載記事、『「只管打坐」雑考』に一口コメントをつけてお届けします。

----------------------------------------------------------

【「只管打坐」坐禅修行のスペクトル~課題中心からハート中心へ1 】

この連載を始めてから早いもので、もうすぐ丸三年になろうとしている。

どのようなトピックをどのような順番で、書くかといった連載全体の青写真というか、構想のようなものがあらかじめあったわけではない。

「雑考」という題が始めからついているように、毎月原稿を書かなければいけない時期が来たらそのつど、その時にたまたま坐禅について書きたいと思い立った話題をめぐって自由に書かせていただこうというのが当初からの方針であった。

ほとんどの場合、こちらがデータの形で送った原稿が『傘松』という冊子の中で、きちんと活字に組み上がって送られてきたものを、改めて読みなおしながら、次の号に何を書くかを思案していた。

だから、時々はある話題(たとえば坐禅中の呼吸の問題など)について一回では書ききれず、何回かにわたって書き続けたこともあったが、たいていは一回完結で、そこに前後の脈絡はあまりない。

悪く言えば、行き当たりばったりで書いているのだから当然と言えば当然である。 


この年末年始に、これまでの自分の連載三十四回分を最初から読み直してみた。

そして、一見バラバラでランダムに見える「雑考」の集まりを通して、自分が総体としていったい何を書こうとしていたのか、自分では意識していなかった何か一貫したモチーフのようなものが、あったのかどうかを振り返ってみた。

そこでひとつ浮かんできたのは、自分は坐禅という営みの独自性、ユニークさがいったいどこにあるのかを、言葉によっていろいろな角度から同定してみようとしていたのではないかということだった。


『正法眼蔵三昧王三昧』の巻の冒頭に「驀然として盡界を超越して、佛祖の屋裏に太尊貴生なるは、結跏趺坐なり。外道魔儻の頂寧を踏飜して、佛祖の堂奥に箇中人なることは結跏趺坐なり。佛祖の極之極を超越するはただこの一法なり。このゆゑに、佛祖これをいとなみて、さらに餘務あらず。まさにしるべし、坐の尽界と餘の尽界と、はるかにことなり。この道理をあきらめて、仏祖の発心・修行・菩提・涅槃を辧肯するなり。」という道元禅師のまことに力強い文章が置かれている。

坐禅のことを、これほどストレートに称揚する文章をわたしはまだ見たことがない。

この一節を初めて読んだとき、坐禅がそれほどに途方もないものだということを、まったく知らずに坐禅をやっていた自分の無知ぶりに愕然とした覚えがある。

道元禅師はきわめて大事なことを言う前に「まさにしるべし」という一文を入れるくせがあるようだが、ここでも「まさにしるべし」と言ってわれわれの注意を喚起しておいてから、「坐の尽界と餘の尽界と、はるかにことなり」と言い切っておられる。

坐禅から展開される世界はそれ以外の活動が展開する世界とは根本的に異なっているということだ。

そして「その道理をはっきりと知って、それに基づいて修行の道を歩きなさい」とお示しになっている。 


『正法眼蔵道心』の末尾には別な表現で「坐禅は三界の法にあらず、仏祖の法なり」とある。

三界とは欲界・色界・無色界の三つの世界のことで、われわれ衆生が流転しながら展開している、この世界のことを総称したものだ。

坐禅はそのような凡夫の世界に属しているものではなく、仏祖の世界に属したものだと言われている。

そして、『普勧坐禅儀』には「坐禅は習禅にあらず。安楽の法門なり」と書かれている。

こうした道元禅師の文章はわれわれに多くの問いを投げかけている。


餘の尽界とは、はるかにことなっている坐の尽界とはどのようなものか?三界の法ではない仏祖の法とは、どのようなものなのか?習禅ではない、安楽の法門とは、いかなるものか?ここで対照されている二つの事柄の違いを、明瞭に見極めるための「道理」を明らめ、それをわきまえて坐禅に努めていくことが、坐禅修行者にとって最重要の課題のはずである。

そうでなければ、坐禅を「餘(それ以外)の尽界」のものとして、「三界の法」として、そして「習禅」として、知らず知らずのうちに行じてしまうことになるからだ。

それは、たとえ当人には坐禅をしているように見えた(思えた)としても、実は坐禅ではない別の何か、「偽物の坐禅false zazen」であって「本物の坐禅authentic zazen」ではないだろう。

それでは道元禅師から「杜撰の徒」という叱責を被ることになる。 


道元禅師がさまざまな角度から「坐禅は××ではなく、○○である」と委曲を尽くして説き示されているのは、ひとえに人々が坐禅を正しく承当し、正しく行ずることを願うがためであっただろう。

道元禅師の信仰においては「打坐は即ち正法眼蔵涅槃妙心なり」、「仏仏祖祖正伝の正法は唯打坐のみなり」(いずれも『永平廣録』)とまで言われる坐禅なのであるから、その肝心要の坐禅の理解や実践が的を外しているようでは、まったく仏法の話にならない。

坐禅を普く勧める(普勧する)ということには、そういう寸分のずれも許されない厳密さが要求されているのである。

だから、坐禅の坐り方や作法を、具体的にきめ細かく説明することは、それはそれで確かに必要ではあるが、それだけでは決して十分ではないのだ。

坐り方や作法がそのような型として、厳格に規定され伝承されてきているのはいったいどのような道理に基づいているのか、坐禅がどのような文脈や方向性においてなされなければならないのか、といったことをしっかりと踏まえたうえで、それを背景(あるいは土台・基盤)としてそのような具体的実際的なやり方の説明がなされなければならない。 

宗門の坐禅指導の現場において、あるところでは坐禅のテクニカルな面のみの指導に偏っていたり(たとえば「結跏趺坐でなければ坐禅でない」と無理無体に脚を組ませようとするなど)、またあるところでは、坐禅の精神面ばかりが強調されすぎたり(たとえば調身・調息・調心の指導なしに「非思量の境地の素晴らしさ」ばかりを説くなど)、あるところでは、どちらの面も手薄でほとんどほったらかし状態で、指導らしい指導がなされていなかったり(たとえば『坐禅の手引き』といった冊子を渡し、坐る場所と時間を提供するだけで当人は坐らないなど)といった憂うべき問題があるということが指摘されている。

こうした現状は、是非とも改善していかなければならないが、そのために乗り越えるべきハードルは高く、またその数も多いことを心しておかなければならない。






『傘松』、『「只管打坐」雑考』より一部抜粋