永平寺から毎月発行されている時報『傘松(さんしょう)』の中にある一照さんの連載記事、『「只管打坐」雑考』に一口コメントをつけてお届けします。

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前回の論考では、釈尊の菩提樹の下の打坐は、すでに出来上がっている特定の方法に意識的に従って「強為」的に行われる、「坐禅」という名前のついた特殊な行法の実践としてあったのではなく、そういう人為的な方法や技法云々以前の、もっと単純素朴に、「云為」的に成立した、文字通りの「打坐」としか言いようのないものだったのではないかという考えを述べた。

今の言葉でいえば、特定の「エクササイズ(訓練)」をやったのではなく、そういうことを一切やめて当人としてはまったく「お手上げ」状態のまま、ただ「坐りこんだ」のだ。


この「打坐」という熟語の中の「打」は「たたく」とい う意味の動詞として使われているのではなく、動詞の上について「~する」意を示す助辞として使われているから、「打坐」は、「(ただ余念なく、純粋に)坐る」というニュアンスを表すのには最適の表現だ。

道元禅師が使うよく似た表現としては他にも「兀坐(ごつざ)」という言葉がある。

これは「兀兀と坐る」ということで、「兀兀」とは「地道に働くさま。たゆまず努め励むさま」であるから、けっきょくこれも「(ただひたすらに)坐る」という意味になる。

道元禅師が坐禅のことを言う際にしばしば使われる「打坐」にしても「兀坐」にしても、こういうきわめて簡素な表現には、A→B →C→...と一つ一つ決められた手順を踏んで遂行していく洗練されたテクニック的な感じだとか、この 場合はこうする、あの場合ならこうやる、とあの手この手を駆使して取り組む煩瑣な営みとかいった感じがまったくしないことに注

目しなければならない。

ただ一言「打坐」、「兀坐」、それだけである。それ以上でも、それ以下でもない。

いかにもあっけらかん、さっぱりとしていて、「方法」や「技術」が先だつ思考法や枠組みに慣れきった現在のわれわれにとっては、愛想のない、取りつく島のない、 つきはなされたような感じさえしてくるのである。

われわれとしてはそれだけではどうにも落ち着きが悪いので、「でも、それはなんのためにやるの?」とか「でも、どうやってやればいいの?」とか「でも、それをやるとどうなるの?」といったことをあれこれ詮索し説明を受けて納得しようとする。



しかし、当の「打坐」は一切の説明を拒むかのように、それでいて確かな存在感をもってドンと丸出しでそこに坐っている。

どうやらこの打坐は説明で片のつく世界には属していないかのようだ。
そういうあれやこれやの質問は、方法や技術に重きを置く立場からしか出てこないものだが、そういう立場から投げられる網ではとらえられないものらしい。

「方法」や「技術」が先だつ思考法や枠組みというのは、

1手段と目的が二元的に措定され、「~のために、~する」という形でどちらもが明確に言葉で規定されている。手段の具体化されたものが方法や技術である。

2最短の時間と労力で、最も効率的に目的を達成することが最優先とされる

3その効率の良さによってもろもろの手段の優劣が判定される

4最良とされる手段の行使に習熟・熟練することが努力の中心になる

 

5手段の遂行のし方(=方法、技術)については細かく規定され標準化されてマニュアルになっている

6目的にどれくらい近づいているかが常に測定され、フィードバックされ、必要な修正や制御がおこなわれる

7目的が達成されれば手段はもはや用済みとされる

といった諸特徴をもっている。

テクノロジーが生活の隅々にまで浸透している現代に生きているわれわれは、こういう思考法や枠組みこそが「普通(ノーマルな)」だと思い込んでいる。
これ以外の思考法や枠組みをそもそも知らないと言ってもいいかもしれない。

だからすべてをこういった思考法や枠組みのなかで考え、行おうとするのである。

しかし、わたしには「打坐」や「兀坐」という表現はそうした思考法や枠組みにはなじまないような何か異質なものを指し示しているような気がして仕方がないのである。

方法や技術というものが「文明」の象徴だとするなら、打坐はそれとは対極の「野生」の象徴なのではないだろうか。



あるいは他の言い方を探すなら「人為」と「自然」、そしてギリシア語の「テクネー」と「ポイエーシス」という対比が思い浮かぶ。

ここで言う「テクネー」とは、テクノロジーの語源で、人間がさまざまな挑発や狡知を駆使して自然に内在するものを外側に引っ張りだそうとする営みであり、一方「ポイエーシス」とは、ポエムの語源で、植物の種が発芽してやがて自然に花が咲くように、自然が自分の中に隠している豊かなものを、自発的に外に持ち出してくる働きである。
そういう「豊かなもの」に出会ったわれわれは、それを自然からの贈り物として、少しも無理をすることなく手に入れることができる。

だからポイエーシスとは自然そのものの贈与的な活動だと言えるだろう。

興味深いことに、この対比は前回触れた「強為」と「云為」 の対比と非常にパラレル(平行)なものを含んでいるように思われる。

 

『傘松』、『「只管打坐」雑考』より一部抜粋

 

 

《藤田一照 一口コメント》 

 坐禅を、方法や技術という枠組みで見ないことというのが、僕の坐禅修行の道行きにおいて大きな気づきでしたが、次には、では坐禅をどういう枠組みで見るべきなのかという問題が出てきました。


それは仏教というのはどういうパラダイムでできているのかという大きな話につながっていきます。