永平寺から毎月発行されている時報『傘松(さんしょう)』の中にある一照さんの連載記事、『「只管打坐」雑考』に一口コメントをつけてお届けします。

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【「只管打坐」八正道論(3)―最少抵抗の道―2】

仏教がわれわれに送っているメッセージは、この話の中の子どもが言うように、「想像するのをやめてみたら?」ということではなかったか。

「覚」というのも、この夢見ているような想像の世界(妄想)からはっきりと目覚めるということだろう(「莫妄想」)。

だから仏教の行法の粋(「坐禅は仏法の全道なり」『辦道話』)である坐禅も、その方向に向かっての営みであるはずだ。

しかし実際のところは、われわれの坐禅修行が、想像から覚めるのではなく、むしろこの想像上の問題を解決するために行われてしまうという、ひどく的を外した方向性で行われる危険性はおおいにある。

それが吾我のために修行する有所得の坐禅といわれるものである。


ここで「吾我」というのは、他と切り離された、いわば固い殻に囲まれた実のようなあり方をした、実体的な「わたし」のことだ。

水が氷のように凝り固まった状態を思い浮かべてみるのもいいかもしれない。

われわれは普段、そういうあり方をした自分を至極当たり前のように感じている。

そして、そういうものとしてすべてのことに対して、感じ、考え、行為しながら暮らしている。

そういうのが人生だと疑わず。

しかし、仏教はそういう吾我は実は虚構であり、そのような虚構に基づいて生きているところから苦悩が生まれているのだと説いている(だから、仏教がわれわれには「カウンター・インテュイティヴ」に聞こえてしまうのも無理はない。前回の論考参照)。


「わたし」の本当のあり方は無我であり、縁起的存在としてすべてとつながっており、関係性の網の一部として存在しているのだ。

仏道修行というのはこの本当のあり方に基づいて生きていくことで、その「正門(正面の入り口)」が坐禅という実践であると教えられる。

ここでの問題の解決のされ方、あるいは問題の局面の変え方は上の笑い話で最後に子供が言った「想像するのを止める」という、それまでとはまったくレベルの違う考えによるものである。

しかし、そのようなレベルの違う考えは、その子の母親にはその発想すらなかったように、われわれにもまた思いもよらないことなのだ。

だから、ともすればそういう教えと実践のまるごと全体が、あの母親が解決しようとしていた考えのレベル、つまり吾我の考えのレベルで受け取られる可能性が充分あり得る。


だから、本当には存在していない問題を、きれいに終わらせるという作業は簡単そうに思われるかもしれないが、よほど細心の注意を配りながら行わないと、たやすく吾我のプロジェクトになり代わってしまうような、きわめて繊細なものなのだ。

それはジレンマ(二つの相反する事柄の板挟みになること)を乗り越えたところで解決しなければならないからだ。

われわれは、いくら虚構だと言われても吾我というあり方で、自分が他から切り離された感じがしていることは疑えない事実だから、そんな感じなどしていないかのようなふりをするわけにはいかない。

しかも、仏教によってほんとうはそうではないと言われた以上、これまでのように何もしないですましているわけにもいかない。

しかしだからといって、吾我の立場からそれについて何かを「する」ことは本当は存在していない問題をかえって現実化させてしまい、解決からわれわれを遠ざけてしまうことになる(笑い話の中の母親のように)。


吾我という想像そのものを止めるということは、想像の中でいかに努力し、もがいても果たすことはできない。

迷いをいかに磨いてもそれは迷いを洗練させるだけだからだ。

しかし一方、努力は無駄だからといって、なにも努力しなければ何も変わりはしない。

放っておけばそのうち妄想から覚めるなどということは誰も保証してくれない。

ではいったいどうすればよいのか?ここにわれわれ修行者が、どうしても突破しなければならないジレンマが課題として突きつけられているのだ。


話は脱線するかもしれないが、わたしが三浦半島の葉山で主宰している坐禅会では参加者のみなさんに、スラックラインという5センチくらいの幅の弾力性のあるベルトを二本の樹の間に張って、その上に立って歩くというワークを体験してもらっている。

いわゆる綱渡りである。

これは実際に、スラックラインの上に足を置いてみた人でないとわからないことであるが、ラインの上に上がろうとして足でラインを下に向かって踏み込むと、当人には信じられないくらいラインが左右に揺れてしまうのである。

自分でそんなに揺らしているつもりはまったくないので、ほとんどの人が「え~、なんで!?」と思わず声を上げてしまうくらい意外に感じるのだ。

足を置くことで、ラインがそんなにも激しく左右にぶれてしまうことなど、初めての人には全く想定が及ばないので無理もないことだが。

上に上がろうとしてラインを踏みつける自分の行為が、ラインをひどくぶれさせて自分を上に上がれなくさせてしまう。

しかし、かといって踏みつけなければ上には上がれない。

さあ、そこでどうするか?スラックラインにチャレンジする人は必ず、こういう禅の公案のような課題に直面するのだ。


してもだめ、しなくてもだめ、そこでどうするか?というのが禅の公案の基本形だとすれば、このスラックライン乗りのワークは、まさにソマティックな(からだを通した)公案だと言えるだろう。

このワークはもちろん、坐禅の要の一つである体幹のバランスの問題に肉迫するために試みてもらっているのだが、それだけではなくこういうにっちもさっちもいかない、ジレンマのただなかに投げ込まれたときに立ち上がってくる感覚を味わってもらうという狙いも込められている。

そして、辛抱強くスラックラインのワークに取り組むことで、このソマティックなジレンマからの脱出(解脱?)の筋道や、論理を自分なりに見つけてほしいと願っているのである。

今のわたしは、アクロバティックな技は到底できないが、スラックラインをあまり揺らさないで、その上を静かに歩くことはできるようになっているから、ごく初歩的レベルとはいえこのジレンマを乗り越えることができたと言えるだろう。




 『傘松』、『「只管打坐」雑考』より一部抜粋