永平寺から毎月発行されている時報『傘松(さんしょう)』の中にある一照さんの連載記事、『「只管打坐」雑考』に一口コメントをつけてお届けします。

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第五の対処法の「気づきで以って、その心を打ち負かし、さえぎり、粉砕する」というのも、その実際はこの表現がかもしだすような暴力的な戦いのイメージとは程遠いのではなかろうか。

わたしとしてはどうしてもそう理解したいのであるが、読者の皆さんはどう思われるだろうか? もちろん、『考想息止経』の「歯をくいしばって...」の部分に対しては、釈尊の真意を理解しない(あるいは誤解した)後代の弟子たちが、経典を編纂する段階で苦行的な要素を再び釈尊の教えのなかに持ち込んだものだという解釈もあり得るだろう。

つまり、この部分は釈尊の言ったことではないとして採用しないという選択をするのだ。


経典の言葉のすべてが確実に釈尊の言ったことだとは限らない。

時代とともに仏教が「宗教化」、「制度化」していく過程で、釈尊が言わなかったこと、あるいは否定したことが、釈尊の言葉や教えとして「仏教」のなかに取り込まれるということは大いにあり得ることだ。

そこは各自が「看経の眼」をもって判断していくしかない。

ヴェトナム人禅僧ティク・ナット・ハン師も、今回わたしが引用した『大サッチャカ経』の一節に触れて「ブッダは悟りに至る前に、心によって心を制する方法を幾通りも試みましたが、うまくいきませんでした。

その結果、彼は力づくでない修行法を選び取ったのです」と述べ、『考想息止経』の五番目の「歯をくいしばって...」は 「ブッダの意図とは逆の意味合いで引用されています」と批判的なコメントを寄せている。


わたしとしてはやはり、「くつろぎのなかで思いに出会う」というのが不善な思いに対する釈尊の対処法の一貫した原則だろうと思っている。

それは、われわれがともすれば引き起こしがちな緊張を伴う「闘争・逃避反応(fight-or-flight reaction)」とはまったく異質な、リラックス、気づき、平静さ、慈愛にあふれた態度を育てていく道である。

正身端坐の坐禅は実は、身心の深いくつろぎを条件として初めて成立する。

「思量箇不思量底」とか「非思量」といったあり方は、いわば思量が思量としてどこにも抵抗や障害なしに自由に自然に流れ動いている状態(「追うな払うな」、「思いの手放し」が成立している状態)であるが、それもそういう条件のもとでこそ現実化するのだ。

『考想息止経』の最後に 「(このような)比丘は、思いがつながっていく道において練達した比丘と呼ばれる。

彼は、思いが思いたいものであれば、その思いを思い、思いたくないものであれば思わない。

彼は渇望を乗り越え、執着を脱ぎ捨て、自意識(慢)を正しく洞察することにより、悩み・苦しみを終わらせた」という一節があるが、われわれの坐禅がめざしているのも、思いを「敵」とみなしてそれに勝つことではなく、「思いがつながっていく道において練達」することなのではないだろうか。


今回の論考を終わるまえに、この点に関連して思い出した、一三世紀のイスラーム教神秘主義(スーフィズム)詩人のルーミー(1207-1273)が書いたとされる『ゲストハウス』という詩を紹介させていただく。


ゲストハウス

人間という存在は、みなゲストハウス。

毎朝、新しい客がやって来る。

喜び、憂鬱、卑しさ、そして一瞬の気づきも

思いがけない訪問者としてやって来る。

訪れるものすべてを歓迎し、もてなしなさい。

たとえ、それが悲しみの一団だとしても

できるかぎり立派なもてなしをしなさい。

たとえ、それが家具のない家を荒々しく駆け抜けたとしても

もしかすると訪問者は、あなたの気分を一新し新しい喜びが入って来られるようにしているのかもしれない。

暗い気持ちや、ごまかし、ときには悪意がやって来ても

扉のところで笑いながら出迎え、中へと招き入れなさい。

どんなものがやって来ても、感謝しなさい。

どれも、はるか彼方から案内人として

あなたの人生へと、送られてきたのだから。


『傘松』、『「只管打坐」雑考』より一部抜粋