永平寺から毎月発行されている時報『傘松(さんしょう)』の中にある一照さんの連載記事、『「只管打坐」雑考』に一口コメントをつけてお届けします。

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【「只管打坐」「問題の解決」ではなく「問題の理解」へ 2 】

英語でfix a problemという表現がある。問題(トラブル)を解決する(解消する・片付ける)という意味だ。

アメリカでは仏教もまさにこの「問題(problem)があるなら、それを解決(fix)しなければならないし、解決することができる」というメンタリティで理解されていた。

例えば、電動歯ブラシというものがある。

電気の力で歯ブラシが微妙に振動して歯を磨いてくれるので、わざわざ自分の手を動かして歯を磨かなくても済むし、手でやるよりはるかにきれいに磨けるという便利で重宝な道具だ。

自分の手を使って歯ブラシを動かすのは面倒くさいし、なかなかうまく磨けない、それはproblemだからそれをなんとかfixしようと工夫努力して作られたのが、この電動歯ブラシなのだ。

アメリカの友人宅ではよく見かけたものだが、最近では日本でも普及しているようだ。

アメリカ文化というのは、こういう fix a problemの精神が日本に比べればよほど徹底している文化なのだろう。

仏教の教えや実践もやはりfix a problemという文脈や態度で受けとめられているのも無理はない。

近頃日本でもよく耳にするようになったマインドフルネスmindfulnessはその良い実例だ。


マインドフルネスとは「意図的に、今現在の瞬間の現実(自己と世界の総体)にオープンな気づきを向け、その現実の体験に判断をさしはさまず、ありのままに受け入れ、思考や感情にとらわれのない状態で、ただ観ているという存在のあり方、そしてそれを実現するための訓練やそれによって身につけたスキルの総体」を指している。

もともとは仏教の中で、伝承されてきた瞑想の中の一つの要素だったのだが、現在アメリカでは、医療、教育、福祉、心理療法、産業、ビジネス、マネジメント、リーダーシップ、スポーツなど実にさまざまな分野で注目され、研究され、実践され、応用されている。

マインドフルネスは、この三〇年ほどの間に「目立たないアジアの仏教的修行法」から、今や「広くあらゆる分野で勧められるべき、あらゆる問題の解決方法」へと大きな変貌を遂げたのである。

それは現在では「マインドフルネス・ムーブメント」と呼ぶに値するほどの勢いと広がりを持った、アメリカの文化的潮流の一つになっている。

そのムーブメントの波がようやく日本にも届きつつあるのだ。


マインドフルネスが、アメリカでそこまでの隆盛を見せている理由はなによりもまず「問題の解決に役に立つ有効な手段」であり、その有効性が宗教的な信仰によってではなく科学的な実証的データによって証明されているからだ。

マインドフルネスは、仏教の中の宗教的実践がfix a problemというアメリカ文化の圧力によって、かれらにとっておあつらえ向きの、世俗的な目的のために使えるようなプログラムとして、巧みに成形し直されたものといえるだろう。

こうしたマインドフルネスの例でよくわかるように、fix a problem的なメンタリティが、優勢なところでは仏教もある種の「科学(サイエンス)」であるかのように理解され、仏教の行法もある種の「テクノロジー」であるかのように用いられることになる。

実際のところ、もろにそういう言い方をしている人たちもいる。

わたしには「スピリチュアルなプロブレム」があるからそれをなんとか「フィックス(故障を直す、というイメージ)」しなくてはならない。

ありがたいことに、最近になって東洋からやって来た仏教というスピリチュアルなサイエンスを見つけた!それは瞑想というスピリチュアルなテクノロジーも完備している!それをうまく使えばわたしのプロブレムを解決できそうだ。

これを試さない手はない。

さっそくそれをやってみよう......というわけである。


わたしの出会った人たちのなかには、こういう態度で仏教に臨んでいた人が多かった。

また仏教を指導する人たちも、同じような枠組みの中でかれらの元にやってくる人たちの要望に応えようとしているようだった。

仏教の指導者たちは、さしずめ、「クライエント」のさまざまな悩みの解決を援助する「セラピスト」だと見なされているのだ。

だから、わたしも仏教という長い伝統をもつスピリチュアルなサイエンスの世界で、きちんと訓練を積んだ有能なセラピストであることをみんなから期待されたのである。

「わたしにはかくかくしかじかのスピリチュアルな〈故障〉があるんです。だから、うまく動けません。それを〈修理する〉ために、何をしたらいいのか教えてください。わたしは絶対にちゃんとそれをやりますから。もし可能なら、あなたがわたしの故障をちゃっちゃっと直してくれるのが一番手っ取り早いのですが......」こんなスタンスでいくら熱心にリクエストされても、わたしの方には「ああ、そうですか。じゃあ、これこれのことをやりなさい。そうすれば故障が直ってうまく動き出しますよ」というような相手の期待に添うような応答をする用意などまったくないのだ。

壊れた自動車を修理屋のところに直しに持って行くかのような、そういう相手の態度そのものにまず違和感を感じてしまう。

なにせ「、貴様一人くらいどうでもいいじゃないか、ウフフフ......」と言い返したくてしようがないのを我慢しているのだから。

わたしには丘老師のように、そう言って相手の立っているところをガラリとひっくり返すだけの力量がないことがわかっているからだ。




 『傘松』、『「只管打坐」雑考』より一部抜粋