永平寺から毎月発行されている時報『傘松(さんしょう)』の中にある一照さんの連載記事、『「只管打坐」雑考』に一口コメントをつけてお届けします。

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【「只管打坐」八正道論(2)―仏道修行は正見から始まる-3】


二〇世紀の最も有名な物理学者の一人であるアルバート・アインシュタイン(一八七九~一九五五)は「我々の直面する重要な問題は、その問題をつくったときと同じ考えのレベルでは解決することはできない」と言っている。

この言葉がどのような文脈で語られたものかはわからないが、きわめて至言だと思う。

わたしは仏教というのは「われわれの直面する重要な問題を、その問題をつくったときとはまったく違う考えのレベルで解決しようとする試み」ではないかと理解している。

それが前回の論考で触れた「此岸のヴィジョン」と「彼岸のヴィジョン」という対比の背景にあった考えだ。

われわれは此岸のヴィジョン(=吾我のヴィジョン)が生み出すさまざまな苦しみや悩みを、そのヴィジョンを変えることなく、逆にそのヴィジョンに基づいて解決しようとしている。

それでは、アインシュタインの言い方を借りれば「直面する問題を、その問題を引き起こしたのと同じ考えのレベルで解決しよう」としていることになる。

しかしそれではけっきょくのところその問題を「解決することはできない」。

むしろ問題をより紛糾させてしまうことにすらなりかねない。

そこでどうしても「その問題を引き起こしたのとは違う考えのレベル」に立つ必要が出てくる。

それが此岸のヴィジョンに対する彼岸のヴィジョン(=無我のヴィジョン)に当たる。


この考えのレベルでのラディカルな切り替えということについて、次のような笑い話をたとえとして説明してみよう。

子どもが母親にこういう質問をした。

「ねえ、おかあさん、自分が何匹もの獰猛(どうもう)な虎に取り囲まれているって想像してみて。もちろん、助けてくれる人もいないし、戦うための武器もないし、どこにも隠れる場所なんかないんだよ。さあ、助かるためにどうしたらいいかわかる?」

母親は、自分がそういう状況に置かれているところをありありと想像し、頭をひねっていろいろああでもないこうでもないと虎から逃げるための良い方策を思いつこうと頑張るのだが、これといったアイデアがどうしても出てこない。

そこでとうとう母親は子どもにこう言った。


「だめだわ。一生懸命考えてみたけど、良い考えが全然浮かばなかったわ。ねえ、もういいでしょ、降参するから教えて。わたしはどうすれば助かるの?」子どもはこう言った「僕だったら、想像するのを止めちゃうな」。......


このジョークの「オチ」がおわかりだろうか?

母親のように想像の中で作り出した問題の解決策をあれこれ懸命に考えることと、子供が言ったようにそのそもそもの想像自体を止めてしまうこと、その両者のアプローチにおける根本的な違いについて、よくよく思いをめぐらしていただきたい。

もし、われわれの苦しみや悩みという問題もつきつめれば、この笑い話に出てきた母親の場合のように、もともとは想像に基づいたものにすぎないのだとしたらどうだろうか?


「想像」という言葉を「妄想」と置き換えても良いだろう。

浄土真宗の在野の思想家である、安田理深師(一九〇〇~一九八二)は「幸・不幸は物についているのではなく、そういうことを思い悩む心についている。人間の苦楽はすべて妄想なのである」と言っている。

吾我という虚構(フィクション、つまり実在するものではなく、想像されたものだと仏教は教えてくれている)が、この話の子どものように「もし~だったらどうする?もし~になったらどうする?」と次々に質問をしかけてくる。

わたしはこの話の母親のように、その質問にちゃんと答えようとしていろいろな「手(方策)」を編み出そうと努力する。

しかしそれが実際には「問題」を作り出していく。

わたしはその問題の解決を何とかしてやり遂げようとする。

その結果、思考に思考を重ね、自分を中心としたドラマはますます根深いものになり、吾我がますます強烈な存在感を得るようになっていく。

時には自分が解決の方向に向かって、順調に進んでいくような気がするときもあれば(そういう時は当然うれしい)、何の進歩も感じられなくてイライラするときもある。

そんな時は、吾我が「止まってはだめだ。そのまま前進し続けるんだ。おまえにはもっとやるべきことがある」とささやきかけてくる。

こうした路線を、どんどん先へ先へと進んでいけばいくほどますます、自分が懸命に取り組んでいることが、もともとは吾我が仮定した想像上の質問だったことをすっかり忘れてしまうのだ。

この笑い話の母親のように、「想像するのを止めればいいじゃないか」ということなどもはや思いもよらぬところにまで立ち至っていくのである。


 



『傘松』、『「只管打坐」雑考』より一部抜粋