約1年半に渡って発信してきた「現代坐禅講義」の記事が先週で終了しました。

今回から題材を新たに、永平寺から毎月発行されている時報『傘松(さんしょう)』の中にある一照さんの連載記事、『「只管打坐」雑考』に一口コメントをつけてお届けします。

題材は新たに、参究は継続して、お届けしていきます。

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仏伝に見る樹下の打坐への道程

只管打坐の坐禅の系譜を逆にさかのぼっていくと、釈尊が樹下で行じた打坐に行きつく、というのが筆者の目下の考えである。

「仏仏祖祖正伝の正法は、唯だ打坐のみなり(『永平廣録』巻四)」(釈尊から代々正しく伝わってきた正しい教え[実践]は、ただ打坐することである)という道元禅師の言葉をそのまま受け入れているからである。

今回はそこでの打坐がどういう意義を持つものであったのかについて私見を述べさせていただく。

その際、釈尊がそもそもどのような経緯を経て樹下の打坐へと到達されたのかというところから考察を進める必要があるので、まずその作業から始めることにしよう。

そのための資料としてわたしが今回参考にするのは『中部経典第三六大サッチャカ経』である(1)。

この経典によれば、釈尊は「年若く、漆黒の髪をもつ青年であり、すばらしい青春がありながら、人生の初期に、母父が望まず、顔に涙し、泣いているにもかかわらず、髪と髭を剃り、黄衣をまとい、家を捨てて出家し」たあと、南に向かい、当時商業都市として栄えていたヴァイシャーリーに赴き、アーラーラ・カーラーマという名の仙人を訪ね、教えを乞う。

釈尊はこの師のもとでほどなくその教えを究め「無所有処」という境地を体得する。

そして師から共同して弟子たちを統率するように請われるが、「無所有処に再生するかぎり、この法は、厭離のためにはならない。離貪のためにもならない。滅尽のためにもならない。寂止のためにもならない。勝智のためにもならない。正しい覚りのためにもならない。涅槃のためにもならない」と思い、そこを去る。

さらに南下してラージャグリハに到り、今度はウダカ・ラーマプッタという名の仙人のところへ行き教えを乞う。

そこでは「非想非非想処」の教えを受け、ここでもまたほどなくその境地を体得し、前回と同じように、師から共同して弟子たちを統率するように請われるが「非想非非想処に再生するかぎり、この法は、厭離のためにはならない。離貪のためにもならない。滅尽のためにもならない。寂止のためにもならない。勝智のためにもならない。正しい覚りのためにもならない。涅槃のためにもならない」と思い、そこを去る。

こうして釈尊は、当時名声を馳せていた二人の瞑想指導者のもとで修行に励み、そこで教えの究極を極めたものの、いずれも「その法に満足せず、その法から厭い離れ、出て行った」のである。  

それはいったい何故だったのであろうか?

もし釈尊がそこで満足していたなら、つまり当時の宗教的伝統(バラモン教)が提供するもので満足していたとしたら、仏教という新しい、革新的な道は切り開かれなかったはずである。

だから、われわれ釈尊門下の者にとってこの問いは修定型の瞑想と坐禅の違いという重要な問題に関わるものとして深く参究していかなければならない。

これは、後に取り上げることになるであろう「坐禅は習禅にあらず」という道元禅師の言葉とも関連している。

さて、そこで釈尊はさらに南に進んで、当時の宗教都市ガヤー郊外にあるウルヴェーラーのセーナ村付近で、今度は瞑想行と並んで当時のもう一つの代表的な宗教的行法であった苦行に励む。

『大サッチャカ経』によればその苦行は実に厳しいものだった。

一定の間呼吸を止めて精神の集中をはかる「止息禅」はかれの肉体を責めさいなみ、少量の豆の汁を摂取するのみの苛酷な断食の日々が続けられた。

釈尊のからだは老人のようにやせ衰え、背骨は曲り、立ち上がろうとしては前に倒れ、坐ろうとしてはあおむけに倒れるというありさまであった。

「過去、現在、未来のいかなる沙門、あるいはバラモンが、急激な烈しい苛酷な苦を感受したとしても、これこそ最高であり、これ以上のものはない」と後に述懐するほど徹底した苦行を行ったのである。

しかし、「この苛酷な難行によっても、私は人法を超えた最勝智見を得ることがない」という思いを生じ、あしかけ七年にわたる苦行をついに放棄することになる。

この苦行の放棄に関しても、それはいったい何故だったのか、教科書的な通り一遍の解答で満足するのではなく、自分自身に引きつけて深い参究をしておかなければならない。

釈尊がやったような苛酷な苦行には到底およばないとしても、われわれはともすると苦行主義的なメンタリティにおちいり「安楽の法門」であるはずの坐禅をいつの間にか苦行にしてしまうことが多いからだ。

こうして釈尊は当時のインドにおける代表的な二大行法である瞑想行と苦行のいずれをも徹底的に試みるのであるが、けっきょくのところ満足な成果を得ることができなかったのである。

つまり既成の方法では目的を達することができなかった、かれの宗教的探求はこの時点で失敗、不成功、という結果に終わったということになる。

この時、挫折し行き詰った釈尊の前には二つの選択肢があった。

もうこれ以上の探求をきっぱりあきらめるか、あるいはそれまで一生懸命試みてきた修定でもなく苦行でもない前人未踏の独自の道を切り開くか、そのいずれかである。

釈尊は後者を選んだ。

「覚りの道が他にあるのではないか」とのかすかな希望とともに、釈尊は幼いころのある出来事を思い出す。

「釈迦族の父が儀式を行なっているとき、涼しいジャンブ樹の木陰に坐り、もろもろの欲を確かに離れ、もろもろの不善の法を離れ、大まかな考察のある、細かな考察の、遠離から生じた喜びと楽のある、第一の禅に達して住んだことを憶えている。」

この回想が契機となり、「これこそが覚りへの道にちがいない」という確信をもって、村娘スジャーターの捧げる乳粥をとって体力・気力を回復し、ナイランジャナー河に沐浴して身を清め、河岸近くの一本の菩提樹の下に打坐したのである。

『傘松』、『「只管打坐」雑考』より一部抜粋


《藤田一照 一口コメント》 

今回から永平寺の寺報である月刊の『傘松(さんしょう)』に連載した『「只管打坐」雑考』を少しずつ紹介しながら、それに一口コメントを加えていく新しいシリーズを始めます。

『傘松』での連載は、友人のお坊さんが当時この雑誌の編集長をしていて、彼からの「坐禅に関する連載をしてもらえないか」という依頼に応えて始めたものでした。

これまでこのメルマガで連載してきた『現代坐禅講義』は僕が50歳で帰国するまでの坐禅について参究してきたことを集大成したものだとすれば、