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【坐禅講義82】第四講:「自ら」の意識と「自ずから」の感覚の交流

こんな坐禅をやって何になるのか?

時間の無駄じゃないのか?

当然こういう質問が出てくると思います。

アメリカでもそういう質問をしばしば受けました。

はじめに「坐禅は人間のためにはなにもなりませんよ」とはっきり言っているのに、 です。

そんなとき、わたしは半分冗談で「無駄ではないよ。坐蒲が暖まっているじゃないか!」と言ったことがあります。

内山老師が師匠の澤木老師に「三十年坐禅をしたらどうなりますか?」とたずねたら「三十歳、年を取るだけじゃ!」と一蹴されたという話をわたしの師匠から聞いたことがあります。

わたしはその師匠から、安泰寺に上山したとき「ここに来たのは坐禅で一生を棒に振るために来たんだぞ。その覚悟はあるんだな」と言われました。

坐禅したらどうなるか?

突き放すようですが、そんなことはやってみなくてはわかりません。

一生生きたらどうなるかなんてことを、生きてみる前に言えるはずがないのと同じことなのですから。

それを人に聞いたからといって、どうなるものでもありません。

その人がどんな坐禅をやるかで全く違う世界が展開するのですから、あらかじめ決まったことなど何も言えるはずがありません。

もし「坐禅したらこうなる」なんてことを言う人がいたらそれは無責任この上ないことだと思います。

だからわたしもこの質問には答えません。

答えられません。

ただ言えることは、ちゃんとやる気でやったら、本当に坐禅をする気で坐ったら、素晴らしく、面白い世界が自ずと開けてきますよ、ということだけです。

道元禅師も「(自家の) 宝蔵おのずから開けて、受け用いること意にしたがわん(尽一切という宝を収めた蔵の扉が自然に開いて、そこに秘められていた宝を受け取り、自利利他のために意のままに用いることができる)」と保証されています。

この五回にわたる講義と五回の対談からなる『現代坐禅講義』は、そんな素晴らしさ、面白さを少しだけ垣間見たわたしが、拙い言葉を弄してみなさんにそういうことを伝えようとして、冷や汗をかきながらひねり出したものです。

ここまで辛抱強く聞いていただき感謝にたえません。

本当にありがとうございました。

 藤田一照著「現代坐禅講義」(P.435~)より一部抜粋

  

《藤田一照 一口コメント》 

 

磨塼寺メルマガが始まって以来ずっと連載してきたこの「現代坐禅講義+一口コメント」もとうとう今回で終わりになります。

2005年に齢(よわい)50歳を超えたタイミングで家族とともに日本に帰ってきたとき、27歳で思いがけず坐禅を始めてからその時までに坐禅について考えたことを、余すところなく