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【坐禅講義76】第四講:脚と手のおさめ方

 

こうして参加者のみなさんの身相が定まり、落ち着き静まってきたのを見計らって、その坐った姿勢のまま「欠気一息」と「左右揺振」をしてもらいます。

欠気というのは「口を開いて気を放つ」ことです。

息を徐々に吸い込んで背骨を下から順に上へと伸ばしていきます。

十分吸い込んで上体を十分に伸ばしきったら、口を開けて徐々に息を腹の底から吐き出しながら背骨をゆるめていくのです。

呼吸の運動によって背骨全体の屈伸運動を行なうわけです。

もものつけ根や首のつけ根にも心地よい刺激が届くように工夫にします。

深い呼吸によって気分を一新するあくびのような働きもあります。

息の通り道を開け、確認するという意味もあるでしょう。

これを数回行なった後、鼻からの自然呼吸に戻ります。



次に「左右揺振」を行ないます。

これは筋肉や関節をときほぐすことをねらって上体を左右に(必要に応じて前後、回転も可)ゆっくりと動かす動きです。

坐禅の始まりのときの左右揺振(坐禅の終わりにも行ないます)はまず、背骨の一番下あたりにこの揺振の刺激が行くように大きくゆっくりと動かし、それから腹部、胸部、首のつけ根という具合に刺激を与える箇所を徐々に上に移すにつれてだんだん動きは小さくなっていきます。

最終的には体重が坐骨の最適ポイントにまっすぐ落ちるようなところに上体を落ち着けます。

欠気一息も左右揺振もいずれも簡単な動きですがくれぐれも、機械的に言われたことを遂行するという態度ではなく、一連の動きを行なうときにそのつど生まれてくるからだの感覚、感じを聴き取りながら、動きそのものの探究を楽しむように、こころを込めて動きます。

そのこころが自ずと欠気や揺振の大きさ、強度、速度を決めてくれます。



こうして身心が調った時点で止静鐘を三回鳴らします。

これはもちろん、正式な坐禅の始まりを告げる合図ですが、同時に美しい鐘の音に耳を澄ませる(耳を凝らすのではなく)ことを通して「何もしなくていい。ただそこに在る」という坐禅のモードを確認してもらうこともねらっています。

音を聞くのに何の努力も入りません。

音を聞くために何もする必要がありません。

音を起こそうとか、変えようとか、いじろうとか、そういったことも何もする必要はありません。

ただ聞こえてくる音をそのままに聞くだけです。

三回目の鐘の音が鳴り終わり、あとはそのまま正身端坐を深めていきます。

伝統的に曹洞宗は壁に向かって坐り(面壁坐禅)、臨済宗は壁を背にして坐ります。

どちらが良い悪いという問題ではありませんが、坐った感じは相当に違います。

両方の坐り方を試してみてその違いを自分で感じてみてください。

釈尊は木を背後にして坐っている絵が多いし、菩提達磨は洞窟の壁に向かって坐っている絵が多いですね。

 

 藤田一照著「現代坐禅講義」(P.420~)より一部抜粋

  

《藤田一照 一口コメント》  

 止静に入る前に、欠気一息と左右揺振という二つの営みが指示されていることは興味深いと思います。


欠気一息は、文字の上では呼吸に関わることのように見えますから、調息の準備として理解されるかもしれませんが、ここにも書いているように、大きく息を吸い、吐くことで、脊椎が前後に大きく動かされますから正身端坐という調身の準備にもなっていますし、それを感じながら心を込めて行うことで調心の準備にもなります。

つまり、坐禅が調身・調息・調心の三つの調を同時に一挙に行なっているのと同じように、