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[序講3] マジック・アイ
藤田 一照 藤田 一照
2017/04/03 13:00

[序講3] マジック・アイ

ネガティブ・ケイパビリティという耳慣れない、そして馴染みのない、 消極的な「しない」力の意義をわかってもらうために、わたしはよく「マジック・アイ (日本ではマジカル・アイと言われています)」を例に持ち出します。 マジック・アイというのは、コンピュータで作られた二次元の繰り返しパターンの図柄ですが、それをある見方でじっと見ていると、その絵のなかからそれまで普通の見方で見ていたときには全く見えていなかった別の絵が立体的に浮かびあがって見えてくるという、とても不思議で面白いしかけの絵です。日本では「眼がどんどんよくなる」というふれ込みでかなり人気のようですから、みなさんのなかにはすでに「マジック・アイ体験」をされた方がいるかもしれませんね。

図柄のなかにはもともとある三次元の絵が隠されているのですが、普通の眼の使い方で積極的に「見よう」としている限りそれは決して見えてきません。しかし、 眼球を動かす筋肉を緊張させて対象に焦点を合わせてそれを見つめ、つまり「目を凝らして」、そこに何かを見ようとする通常の能動的な眼の使い方をやめて、眼球のまわりの筋肉をリラックスさせ、つまり、まさに「眼をくつろがせる」わけです。何かを見てやろうとする努力をやめて、焦点を合わせないようにして、それまでとは全く別の受動的・受信的な眼(こういう眼を「マジック・アイ」と言います)になってじっと注意深く待っていると、それまで見えていたものとは全然違う三次元の絵が、そのうち思いがけない仕方で向こうからフッと立ち上がってくるのです。「おっ、やったぞー!」と思ってもっとよく見ようとして、思わず普通の見方に戻った途端、つまり眼が力んだ途端、その三次元の絵は消えて、 元の二次元の絵に戻ってしまいます。

この「マジック・アイ」という現象が興味深いのは、同じ一つの画像を普段の眼の使い方で見るのと「マジック・アイ」といわれる眼で見るのとでは全く異なった視覚体験の世界が開かれるということです。こちら側の眼のあり方と向こう側の見えるものとの対応関係はとても厳密なもので、そこではごまかしがききません。普通の目つきでは三次元の絵はどうしても見えないのです。「マジック・ アイ」においていったいどういう理屈で三次元の画像が立ち現われてくるのか、わたしは寡聞にして知りませんが、それは単なる「こころの持ちよう」というような心理的なレベルのことではなく、眼の使い方という身体的・生理的レベルでの違いが関わっていることは確かです。

それはともかく、見ようと努力するとかえって見えない、見ようとしないで、つまり眼をくつろがせてしかし注意深く待っていると見えてくる……。マジック・アイはくつろいだ眼であり、ネガティブ・ケイパビリティが働いている眼なのです。 ネガティブ・ケイパビリティを発揮して、くつろいで待っていることで初めて開かれてくる世界が確かにあるということをこのマジック・アイの絵がよく例示しています。ここまでお話ししてきた(極めてざっとしたものですが)パスカルやキーツの洞察を受け入れるのなら、ポジティブ・ケイパビリティを行使することではたどり着くことができない奥深い世界、くつろいでいなければ現われてこない豊かな世界が確かにあるということを、われわれは認めなければなりません。そして、そういう世界にアクセスしたいと願うなら……、いや、こちら側からアクセスしていくなどという積極的、能動的な表現はポジティブ・ケイパビリティの世界の表現形式になってしまいますね。 それではまずいので、受身形の表現に言い直します。そういう世界がこちらにアクセスしてくることを願うなら、われわれにはくつろぐことができる力、ネガティブ・ケイパビリティが必要なのです。

マジック・アイの例を拡張して考えてみると、今ここの自分に満ち足りることができずにじっとしていられないで、どこかに自己への不満からの気晴らしを求めて動き回らないではいられない人と、無理やり我慢をしてそこにいるのではなく本当に現在に安住してくつろぐことができている人とでは、この世、あるいは人生という同じ部屋のなかにいるようでも、ナマの体験としては全くちがう部屋にいるということになります。その人にとって体験される世界、人生の風景が全く違うのです。前者にとっては「あれもない、これもない」、何の楽しみもなく退屈極まりない、一刻も早く逃げ出したくなるような部屋であるものが、後者にとっては「あれもある、これもある」、この上なく風流で豊かな、飽きることのない、くつろげる部屋なのです。

坐禅というのは、結晶が溶液のなかでだんだん析出してくるように、後者のような人が育っていくためのいわば触媒のようなものだとわたしは思っています。禅の伝統にはそういう人のことを表現するぴったりの言葉があります。 「絶学無為の閑道人(ぜつがくむいのかんどうにん)」(永嘉玄覚『証道歌』)、つまり何ものにも引き回されない人、何ものからも逃げず、何ものをも追いかけることのない閑(ひま)な人という意味です。

藤田一照著「現代坐禅講義」より一部抜粋

〔藤田一照 一口コメント〕

坐禅の修行とか仏教の勉強とか、そういう一見高尚に見えることも、一皮めくるとやっぱり「気晴らし」の一形態にすぎないということだって充分あり得ます。だから、気晴らしでないものを求めるというよりは、人間がやることはどんなことであっても例外なくけっきょく気晴らしでないものはないということを、まず認める、というところから始めてはどうでしょうか。

中学で日本史を習った時に、聖徳太子の十七条憲法の第十条に出てきた「われ必ず聖なるにあらず。彼必ず愚なるにあらず。共にこれ凡夫なるのみ」という一文に「なるほど、人と人が和するにはこういうやり方もあるのか」と感心したことを思い出します。聖と愚を分けて、どっちがどうだと争うのではなく、ともにこれ凡夫であると認めるところに、二元対立を超える道が見事に開かれます。 

人のやることはどれもこれも「これ気晴らしなるのみ」。みんな所詮は気晴らしなんだから、そんなに大したことじゃないんです。Take it easy! そんなに気にやまなくていいのです。そして、どうせ気晴らしをするのなら、最も洗練された、もうこれ以上はないというくらいの粋な気晴らしを探してみればどうでしょうか?いろいろな気晴らしを試してみて、これもまだ野暮ったい、これも洗練度が低い、とだんだんふるいにかけていって最後に何が残るのか?そういう気晴らしを最高に真剣にやる。それが気晴らしから逃げないで、気晴らしを超えることになるような気がします。

 

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