永平寺から毎月発行されている時報『傘松(さんしょう)』の中にある一照さんの連載記事、『「只管打坐」雑考』に一口コメントをつけてお届けします。

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【「只管打坐」「仕切りのある心」から「統合されている心」へ2 】


 『普勧坐禅儀』のなかには「公按現成、籮籠未だ到らず、若し此の意を得ば竜の水を得るが如く虎の山に靠るに似たり、当に知るべし正法自ら現前し、昏散先ず撲落することを」とか、「嘗て観る超凡越聖、坐脱立亡も此の力に一任することを。況んや復指竿針鎚を拈ずるの転機、払拳棒喝を挙するの証契も、未だ是れ思量分別の能く解する所に非ず、豈に神通修証の能く知る所とせんや。声色の外の威儀たるべし」、「宝蔵自ら開けて受用如意ならん」といった、どうみても「坐禅の功徳」としか読みようのない表現が埋め込まれている。

そういう坐禅の功徳とか利益(「りえき」ではなく「りやく」)というものがあるのだとすれば、それは坐禅とその功徳産生の同時進行という仕方で、理解されるべきなのではないだろうか?


システム現象学者の河本英夫氏は「二重作動double operation二重の働きの同時進行」というコンセプトを打ち出して「ある行為を行うことが同時に別様の事態を実行してしまっている場面」の記述を試みようとしている。(『システム現象学 オートポイエーシスの第四領域』新潮社参照)この二重作動という概念を借りれば、坐禅という行為をしていることが、同時に坐禅の功徳を産み出すという事態を実行してしまっているのだ。

「してしまっている」という言い方から感じられるように、それは当事者の自由になることではない。

それは、坐禅をしているにもかかわらず、その功徳が産み出されないようにすることは、不可能だということを意味している。

坐禅をしているかぎり、そうである以外に選択の余地はなく、それは当人が意識しているか意識していないかに関わらず、自ずとそうなっているのである。

それが「自然(じねん)に」ということの意味であろう。


前回、『正法眼蔵随聞記』の中の「坐禅すれば自然に好くなるなり」という一節を引用したが、「坐禅」と「好くなること」の関係もまた「二重作動」的に理解すべきであって、坐禅という行為と好くなるプロセスとが同時に進行しているのだ。

だからことさらに、「好くなろう」という意識的な努力を坐禅に持ち込む必要はなく、坐禅を坐禅として誠心誠意実行していれば、それで充分なのである。

むしろ坐禅の中に、「好くなろう」というこちら側の意図を持ち込むことは、要らぬおせっかいであって、二重作動の条件を乱すことになってしまう。

『普勧坐禅儀』の中には「莫図作仏(作仏を図ることなかれ)」というお示しがある。

多くの人たちはこの一文を読むと、「えっ、仏になろうと思って坐禅するんじゃなかったんですか!?」と驚くだろう。

実は、かつてのわたしがそうだった。「仏になろうとしちゃいけないと言うんなら、いったい何のために坐るんだ!道元さんてとんでもないことを言う人だなあ。仏になろうという動機があるからこそ坐禅するのであって、それを取り上げられたら坐禅する人なんかいなくなっちゃうんじゃないか」と思ったものである。


「図作仏」をめぐっては『正法眼蔵坐禅箴』の中に、有名な南嶽・馬祖の師弟の「磨塼作鏡」の問答が取り上げられている。

ここでそのことについて深く論じることはしないが、これも磨塼という行為(坐禅)全体が、そのまま二重作動的に作鏡という事態(成仏という功徳)を産み出していると理解するべきだと思う。

仏である坐禅では仏になろうとする必要はないし、そういう不要なことはしてはいけないのである。

「坐禅すれば自然に好くなるなり」ということをそのように理解したうえで、次の問題は、では好くなるとはどういうことなのかということを、もう少し具体的に明らかにすることだ。

前回の終わりにそれを「仕切られた心から統合されている心へ」という切り口で、論じるという予告をしておいたので、残りの紙面でその課題を果たしたいと思う。


ここで「仕切られた心」と言っているのは、われわれの日常的な心のことだ。

「仕切る」というのは、何かと何かを区切ることを意味しているが、われわれの日常的な心は、あたかも脳に入ってくる「感覚データ」と脳の外のどこかでそれを受け取っている「自分」とが区切られているかのように振る舞っている。

この「自分」は、目前で起きている経験についてあれこれ考え、その考えやそこから湧き上がってくる感情に従って行動している。

この「自分(わたし)」と「自分の経験」という区別は普段のわれわれにとっては自明のもので、そういう区別が確かにあるようにしか感じられない。

仏教で言う「我(自己)」と「我所(自己の所有物)」という区別である。

しかし実は、舞台裏で思考や行動を支配していると、心が信じているこの「自分」は実は心の中に生じている現象でしかない、というのが仏教の説くところなのだ。

存在しているように感じられるが本当は幻影、虚構であり、実在するものではない(「無我」)のである。


それはたとえて言えば、映画の中で活躍している主人公が、自分はその映画の監督だと信じているようなものである。

その主人公自身は、映画の内容を自分が監督として、すべてコントロールしていると思っているが、実際はその映画の他のすべてのものと同じく脚本によって作り出されているのであり、他のすべてのものと同じ材料(映写装置)で構成されているのだ。

「自分」は「自分」が「心」を持っていると思っているのだが、事実はその逆で「自分」の方が「心」の産物だったのである。

「自分」が外から内側の心(経験)を見ているという、仕切りがリアルにあるような感じをずーっと維持するためには、絶えず心の中でそういう「おしゃべり(思考活動)」を続けていかなければならない。

つまり心の中にいつも雑音を起こして、自分と自分の体験を区切るための仕切りを、設け続けなければならないのだ。

もし心が静かになったら、その仕切りを維持することができなくなってしまう。

「自分」というコンセプトは、心から生まれてくる思考の一つに過ぎないのだが、生まれて以来の記憶印象を保持した、特別な重みのかかった思考である。

 

 

 

 

 

 

 

『傘松』、『「只管打坐」雑考』より一部抜粋