道元禅師の書いた坐禅の手引き書である『普勧坐禅儀』を見ても、いきなり坐り方を説明しているのではなく、「たずぬるにそれ、道本円通なり、いかでか修証を仮らん。宗乗自在なり、なんぞ功夫を費やさん(原文は漢文)……」と坐禅がどれほど宗教的に高い次元で行じられなければならないか、まずそこから説き始めています。「本来成仏(これからぼちぼち修行をしていつかその成果として仏に成るという話ではないこと)」、「不可得(意識主体のわたしが何かを対象として得るという話ではないこと)」という大乗的仏道の根本的な立場が簡潔な言葉で述べられ、それに呼応して坐禅とはわれわれが大自然、つまり仏に生かされて生きている事実をそのまま純粋に、はからいを交えずに行じることであると明確に示されたあとに初めて、坐禅の具体的なやり方が書かれているのです。

ですから坐禅の実際に関する具体的な記述も、坐禅がどのようなものでなければならないかという明確な理解に基づいて受けとられなければなりません。それらの記述は、姿勢はこのようにして作り、息はこのように行い、精神状態はこうなるようにせよ……という普通のマニュアルにのっているインストラクション、指図として理解してはいけないのです。その程度の浅いものとして理解しては間違いなのです。それでは坐禅のあるべき姿と実際とが食い違ってしまいます。坐禅は人間の作為(作りごと)であってはいけないのに、実際は作為そのものになってしまうからです。坐禅が坐禅にならず、その真価を発揮することができなくなります。

たとえば『普勧坐禅儀』には「不思善悪」という表現があります。これはたいてい「善悪を思わず」と読み下しにされますから、普通の理解だと「善悪を思うな」、「善いとか悪いとかいうことを思ってはいけない」というふうに抑制や禁止として受けとられます。そして、そういう理解に基づいて、坐禅中に善とか悪の思いが極力浮かんで来ないような、つまりそういうことを考えないような工夫や努力が始まります。しかし、道元禅師が「不思善悪」という言葉で言い表そうとしたことは、それとは全く違います。これは「善悪を思うな」という命令文、指示文ではなく、「(坐禅は)不思の善悪である」という平叙文、叙述文なのです。坐禅中に浮かんでくる様々な思いや考えは、われわれが生きていることから自然に起こってくる、たとえば息の出入りや心臓の鼓動と同等の、生命の息吹、生理現象です。それを「不思」と表現しているのです。

内山興正老師は「思いは頭の分泌物だ」と言いました。胃が胃液を分泌するように生きている脳は思いを分泌すると言うのです。そして「胃液が出すぎると胃酸過多で困るように、思いが分泌過多になって困っている人が多すぎるね」とも言っておられました。「不思」とは脳の分泌作用を止めろというのではなく、坐禅においては善悪の思いが浮かんでくるのは自然現象であって、思いそれ自体は自分の思惑で浮かんできているのではないという事実を意味しているのです。ですから、われわれがなすべきことは、そのまま手をつけずに、浮かんでくる思いを追いかけもせず、また払おうともせず、自然に起こるままに消えるままにしておくことなのです。「不思(人間の思惑の入らない自然)」を「不思」のままにしておくということです。内山老師はこれを「思いの手放し」と言っています。

この立場からは、自然に浮かんでくる思いを相手にして、悪者にしたてて、それが浮かんでこないようにしよう、消してしまおうと努力するのは、自然への冒瀆であり、坐禅においては全く不必要なことになります。さらに言えば、手放しというのは手放そうと思って特別なことをすることではなく、正しい坐相を刻々にねらうなかで自ずと思いが手放されているというのが「不思善悪」の実際です。放っておけば思いの方で自分から消えていく、それを邪魔しない、妨げないようにするだけでいいのです。

それと同じように『普勧坐禅儀』の中の「莫管是非」、「停心意識之運転」、「止念想観之測量」という記述も正しい坐禅が行なわれているときの様子を記述したもので、是非の思いが浮かんできたり、心意識が運転されたり、念想観が測量されたりと、そういうことが自然に次から次へと起きても、普段のようにそれらに引きずり回されないで正身端坐の努力が淡々と続けられていることが「莫管」、「停」、「止」ということなのです。「是非を管するな」、「心意識の運転を停めよ」、「念想観の測量を止めろ」と、坐禅する当人が是非の思いや心意識の運転状態、念想観の測量状態を相手にして、それらをストップさせなければならないと指示しているのではありません。それとは反対に、そのような身体の自然現象を人為的にコントロールしないように、それに介入して自分の都合のいいように意図的な操作しないという意味で「莫管」、「停」、「止」を理解しなければならないのです。

同じ言葉でも坐禅をどのように理解しているかによって、コントロールせよと言っているのか、その逆に自然にまかせてコントロールしないでおくと言っているのか、これほどまでに解釈が違ってくるのです。当然、それに応じて実際の坐禅の内実も全く異なったものになってきます。『普勧坐禅儀』からも明らかなように、只管打坐の坐禅は明瞭に後者の立場に立っています。そういうことをあらかじめよく心得て坐らなければ、只管打坐にはなりません。

藤田一照著「現代坐禅講義」より一部抜粋


《藤田一照 一口コメント》
禅のテキストでは、読みかたに注意が必要です。「不」や「非」、「莫」、といった否定辞や「何」、「恁麼」、「如何」、「誰」といった疑問詞は、そのまま否定や疑問の意味に読んではいけない場合が多いからです。たとえば、禅問答の定型の一つとして「如何是仏法」という問いがあります。これは普通なら「如何なるか、是れ、仏法?」と疑問文に解して、「仏法とは何ですか?」という意味にとるのですが、禅では多くの場合「問処の道得」といって「問いの形で答えを言う」という言葉のアクロバットのようなことをしますから、この一見問いに見えるような文章も、その裏では「如何なるものも、つまりありとあらゆるものが仏法なんですね」と言い切っていると理解すべき場合があるのです。厄介ですが、そういう厄介な問題を禅が問題にしている以上、こちらがそれに慣れるしかありません。われわれの既知の概念では把握できない、言葉を超えた実物を、敢えて言葉で指し示そうというのですから、疑問の形でそれを果たそうというのはすごい発明だと思いませんか?ある人物が何者かわからないときに「あの人、誰?」と聞くでしょう。「誰」という疑問詞で知らないその人が端的かつ的確に指し示されているわけです。「あの人は『誰』である。」だから、禅の文献の中では「如何なるか?」は「如何なるものも」、「誰か?」は「誰でも」と解するべきケースが多々あるのです。否定詞もまた、その通りで「不」「無」とか「非」は普通の否定の意味にではなく、「本来の」とか「人間の思慮を絶した」という意味に解すべき場合が多いのです。だから「われにあらざる」という表現も、「非の我」、つまり「本来の形なきものが我という姿として現れていること」と解することもできるのです。となると、一つの文に二つ以上の含意があることになります。坐禅もまた、あのように坐って、自己とはなにかを問い、また一方で、あのように坐って、自己とはかくのごときものであると答えている、「問処の道得」なのです。


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