【坐禅講義76】第四講:脚と手のおさめ方
藤田 一照 藤田 一照
2018/08/17 07:05

【坐禅講義76】第四講:脚と手のおさめ方

(前の記事)
【坐禅講義75】第四講:自ずからなる調身②

 

 あとは四肢ですが、今まで述べてきたように最も大事な体幹のバランス状態を乱さないように適当なところにおさめていきます。


脚に関してはもうすでにかなり述べてあります。

脚は上半身を支える安定した土台、基盤の一部を形成します。体重を主に支えるのは坐蒲の上に乗っている坐骨ですが、股関節から伸びている大腿部は膝の外側を坐布団にしっかりつけることで安定性の向上に貢献します。

膝から下は結(半)跏趺坐の場合は足で反対側の膝を下に押しつけることで下半身の坐布団への密着度を増し、安楽坐の場合は坐布団について着地面の一部になり安定性を増します。



ある程度の時間坐ってもしびれなどが起こらないような柔らかい坐り方を工夫すべきです。

たとえば脚はどこから始まっているかということですが、骨格上から言えば股関節からということになるのかもしれませんが、からだの動きという点からすればもっと遡ってみぞおち(肋骨のやや下で、腰椎の前)のあたりなのです。

脚の根っこがそのあたりにあることを感じながら脚を動かしてみるのです(前に言った綱渡りをしばらくやっていると本当に脚がその辺から始まっている感覚がはっきりしてきます)。

それから、腸骨と仙骨をつないでいる仙腸関節があります。

解剖学を勉強したときここがれっきとした関節だということを知って驚いたのですが、この関節を活かして脚を使うことで、体感としては脚がかなり長くなり自由度も増してきます。

この二つの工夫は本書の対談者の一人である塩澤賢一先生から教えていただいたものです。

そのように脚についての認識というかボディーマップ(からだの地図)が改まり、使い方も違ってくると、坐ったときの脚の感じが確かに以前とはだいぶ違ってきました。



腕に関しても脚と同じような工夫ができます。

これも塩澤先生からヨーガのアーサナ(体位)を作るときに教わったことですが、腕の始まりは肩のつけ根からではなく鎖骨と胸骨のつけ根の胸鎖関節からであることを意識して動かすと動きがずいぶん自由になり楽に動かせるのです。

そこから両腕を鎖のように自然に垂らし、手をリラックスさせ(特に手のひらの中央部)、作法通り手のひらを上にして右手の上に左の手をのせて(右手の指の上に左の指が重なるように)両方の親指の先端同士を自然に触れ合わせます。

力みのない手を組み合わせれば親指と人差し指できれいな楕円形が自然に「できます」。

自分で特定のかたちを作ろうと手を緊張させる必要はありません。

坐禅の解説書の中にはいかにも「これこそが法界定印です」と言わんばかりに力みかえって、わざとらしいかたちを手で「作った」写真が載っていますが、それはどうかと思います。

小指側が丹田あたりに触れるようにそっと下腹につけます。

自分の感覚に伺いを立てながら一番落ち着きのいい場所を探してそこに手を落ち着けます。

手や手首は硬く固めないで、からだ全体の微細な動きと連動して自由に動けるように柔らかくゆったりと保ちます。

たとえば、呼吸が起こす微細な動きに連動して両手は自由にスライドして(もちろん眼に見えないほどわずかなものですが)近づいたり離れたりできるような自由度を持ったものでなければなりません。

胸鎖関節から始まった腕は両手のところで繫がり、からだの前で大きな円環を作っています(肘のところは鋭角的でなく関節がないかのように丸く感じられます)。

この円環もやはりどこにも力みがなく柔らかく自由に動ける状態でなければなりませんが、同時に環が内側から外側に向かって広がる「張り」のようなものを感じさせる力強いクオリティも自ずと備えているのです。

「力みがない」というのはだらしなくフニャフニャになることではなく、「力を抜くことで本当の力が出る」という逆説的なことが起きて、ある透明な力強さが生まれてきます。

 

 藤田一照著「現代坐禅講義」(P.418~)より一部抜粋

  

《藤田一照 一口コメント》  

坐禅では普段自分のやりたいことを実現するために思い通りに動かしている(つもりの)手や足よりも、意識では支配できない内臓を収めている胴体が優勢になっている、ということを僕はよく言います。

普段目が覚めているときの営みと、同じく目が覚めているときに行う坐禅という営みの大きな違いの一つがそこにあると思うからです。

手足が胴体に溶け込んでしまって消えている

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