【坐禅講義75】第四講:自ずからなる調身②
藤田 一照 藤田 一照
2018/08/10 07:03

【坐禅講義75】第四講:自ずからなる調身②

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【坐禅講義74】第四講:自ずからなる調身①

 

「必ず耳と肩と対し、鼻と臍と対すべし」という『普勧坐禅儀』の頭と胴体の関係についての記述も、こういう坐り方をすれば自ずとそうならざるを得ないということを言っているのであって、鏡で自分の姿勢を眺めて耳と肩、鼻と臍が見た目で一直線になるように、その部分だけを動かしてそろわせるというようなことを意味しているのではないのです。

正しく坐っていれば姿勢全体との関係の中で結果的にそうなっているというふうに理解しなければなりません。

それに細かいことを言えば、耳と肩、鼻と臍が単に位置的に一直線上にあると言うだけでは十分ではなく、ゆったりとやわらかく坐っているなら、たとえば呼吸に伴ってその間の距離が広がったり元に戻ったりして位置関係は微妙に動いているのです。

やはりこれも坐禅の中の動きの一例です。



眼球の周囲の筋肉をゆるめて眼を柔らかく開いていれば(「ソフト・アイ」)、腰椎の状態との関連でまぶたは完全に閉じてもいないが完全に開いてもいない、やはり“ニュートラル”な位置に落ち着きます。

こういう目つきはしばしば「半眼」と言われるのですが、それは半分だけ開いておこうと思って意図的にそういう眼に「している」のではありません。

リラックスした眼で正しく坐っていると自然にそういう眼に「なる」ということです。またこころが落ち着いてくると視線は自然に下方に落ちてきます。

「落とす」のではありません。

「落ちる」のです。

よく「視線を四十五度落とすように」という指導がされますが、道元禅師はそんなことは一言も言っていません。

ただ「目は常に開いておくこと、見張らず細めず」という教示だけです。

そのような人為的に勝手に決めた数値に視線をあわせて固定するなどというのは強為の極みなのですから当然です。



人間のからだの中で最も微細な制御がなされている筋肉群が三つあると言われています。

その最たるものが眼の動きを制御する筋肉群です。

ちなみに二番目は舌を動かす筋肉群、三番目はさっき触れた頭と首の微妙なバランスを取る首の後ろにある深層筋(後頭下筋群)です。

眼は発生的にも脳が延長してできたものですし、「眼はこころの窓」というように、こころの状態を如実に反映しますから、眼を自然に静かに落ち着かせて「坐禅の眼」になるということは実に難しいことなのです。

眼のあり方と姿勢はお互いに微妙な影響を与えあっています。

「目は常に開いておくこと、見張らず細めず」ということも坐相全体の問題として探究していかなければなりません。

普段のように対象に焦点を合わせるような「凝らした」眼ではなく、視野の中にあるものにまんべんなく、視野の中央だけでなく縁の方にも眼を配ります。

パノラマ的な眼とでも言えばいいでしょうか。

高い山のてっぺんから眼に映る全てのものを平等に見下ろしているような感じです。

また肉眼そのもので見ようとするとどうしても眼に力みが生まれますから、前にも言ったように脳の視覚野あたり、つまり後頭部の少し上の方の脳の部分あたりで見ているような感じにします。

ちなみに耳も同じで耳自体で聞こうとするとそこに力みが生まれますから脳の聴覚野、つまり耳の少し上あたりの脳の部分でなんとなく聞いているような感じにするといいと思います(藤本靖『身体のホームポジション』BABジャパン 参照)。

最近わたしは時々実験的に、今言ったような脳のある部分で見たり聞いたりするところからさらに奥に行って、下腹の丹田あたりで見たり聞いたりしているようにならないかと工夫しています。

今のところはまだ眼のあたりに力みが感じられるので、そういう工夫が必要なのですが、最終的には、もはやどこで見ているか聞いているかなどということが言えないような、ただ単純に見え、聞こえているだけという方向にいくのだろうなと思っています。



頭と首のバランスが取れると自然に口は閉じられ(かみ締めるのではなく)、舌はしゃべる必要がないので口の中でゆったりと休ませます。

すると上顎の歯のつけ根に軽くつきます(ことさらに押しつけるのではなく)。顔の表情筋も日常生活でのように対人的な場面で仮面のように顔を使う必要がないのでゆるめます。

特に眉間を緊張させてしわをよせないように気をつけます。

眉間の緊張はみぞおちの緊張と関係しているからです。

自然に軽く微笑んでいるような穏やかな顔つきになります。まさに素(そ)の顔、素顔ですね。



顔には眼、耳、鼻、舌という四つの感覚器官があります。

坐禅のときの感覚器官の使い方はとても重要な問題です。

眼を凝らして何かを見つめるとそれだけで、視覚の対象物に引っ張られるように身体全体が前のめりになって姿勢が崩れてしまいます。

眼の緊張が体全体に及ぶのです。

音をもっと聞こうとして耳を緊張させると、その緊張も全身に及んで姿勢を崩してしまいます。

眼と耳以外の鼻、舌、身、意もやはりそこにあまりにも力を注いで「凝らして」しまうと、全体とのバランスを失って姿勢を崩すように働いてしまいます。

ですから正身端坐においてはどの感覚器官も「凝らさない」ようにリラックスさせ、「澄ませて」ておくことが大切です。

もっと見ようとかもっと聞こう、もっと考えようと、与えられた以上のものを貪欲に求め握り込んでいこうとするような使い方をせず、ただ感覚器官に向こうから届いてくるものだけを繊細に受け取り、それを握りこまないで手放していくような受信に徹したモードにしておくのです。

「来るものは拒まず、去るものは追わず」です。

こういう使い方をしていると感覚器官は姿勢を崩すようにではなく、坐禅と世界とをほどよくつないで正身端坐を支えてくれる頼もしい助けとなります。

 

 藤田一照著「現代坐禅講義」(P.4**~)より一部抜粋

  

《藤田一照 一口コメント》  

坐禅の三成分である調身・調息・調心を論じるときに、眼、耳、鼻、口、皮膚といった感覚器官のこともしっかり勘定に入れるということはあまり一般的ではありません。

しかし、今のわたしはそれは非常に大事な問題だと思っています。

まだまだ浅い理解にとどまっているので、今後とも身心を調える営みの必須のエレメントとして

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