(前回の講義)

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今回読んでいくのは「冀(こいねが)はくは其れ、参学の高流(こうる)、久しく摸象(もぞう)に習つて、真龍を怪しむこと勿(なか)れ。」のところです。

「冀はくは其れ、参学の高流」と呼びかけられているのは他ならぬ、この『普勧坐禅儀』を読んでいるわれわれです。

「参学の高流」とは「仏道を学ぶ気高い方々」という意味ですから、道元はここでわれわれをこう読んで、「お願いだから、くれぐれも正しい坐禅をしてくれよ。そして後世にそれを伝えてくれよ」と、膝を折ってわれわれに頼んでいる委嘱の姿勢を示しているわけです。

何を願っているかというと「久しく摸象に習つて、真龍を怪しむこと勿れ」ということです。

ここのところは伝統的にそう読まれているのですが、「久しく摸象に習え、真龍を怪しむこと勿れ」と読むべきでしょう。

原文を見ると「久習摸象 勿怪真龍」となっていて、「勿れ」という否定命令は「怪しむ」にのみかかっていて、「習う」にはかかっていないから、そこをはっきりさせて読んだ方がいいと思うのです。

「摸象」という言葉の意味は「規則、作法、型(摸)通りにかたどり作る(象)」ということで、『普勧坐禅儀』に示されている通りの正しい作法に則って坐禅をすることです。

それを「久しく習って欲しい」と言っているのです。

「習」という字には「常、積」という意味が備わっていますから、いつも同じことを積み重ねる、やめるというときはなく、無際限に続ける、ということが強調されているのです。

『普勧坐禅儀』の解説本にはよくこの「摸象」の意味を模型の龍ばかり集めていた人の話だとか、盲人たちが象を撫でる話と結びつけた解釈がなされていますが、私はそれを採用しません。

摸象は坐禅そのもののことだと理解すべきだと思います。

ですから、「真龍を怪しむこと勿れ」というところは、摸象がそのまま真龍の表現になっているということを疑ってはいけないという意味になります。

摸象が修行であり、真龍は証(さと)りで、摸象すなわち真龍、つまり修証一等であるということを言っているのです。



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