(前の記事)
【坐禅講義71】第四講:坐蒲に坐って

 

これで坐蒲の上に坐り、脚をしかるべきかたちにおさめた段階まで来ました。

ここからが結果自然成の坐禅、云為の坐禅になるような工夫のしどころになります。

からだほぐしの体操でからだとこころを少しでもほぐそうとしたのは、ほぐれればほ ぐれるほど身心が本来持っている自動調整作用が働き、その力にまかせることによ って自然に、云為としての坐禅が成立するからです。

そういう身心の持つ素晴らしく精妙な働きに対する確かな信頼がなければ、結果自然成とか云為といっても机上の空論に終わります。

吾我は自分しか信じていないので、決してコントロールの手を放そうとしないからです。

ですから、吾我にとってはそういう坐禅はまさに「百尺の竿の上にまで登ってさらにそこから一歩踏み出す」ようなことなのです。

しかし、そういうわれわれでも、吾我の支配がまだそれほど専制的ではない、自然にまかせて生きている動物に近かった嬰児時代がありました。

大人としてあらためてそういう状態を復元することができれば云為として坐禅ができる道が開けるでしょう。

本当の嬰児はそういう自覚なしに、無自覚のまま云為していますが、われわれ は自覚しつつあらためて云為のあり方を学びなおし深めていく道をたどるのです。

ですから、坐禅の修行というのは、特別な能力を新しく身につけることではなく、使わずに眠らせてしまっている自然から与えられた能力を今すでに働かせてい る能力とともにフルに発現させることなのです。

われわれにとって坐禅のモデル、見本、手本となるのは、もちろん見事な姿勢で端然と坐禅している禅僧の姿、たとえば第一講でお見せした、澤木興道老師の坐禅の写真です。

これは一生を只管打坐に捧げた老師の面目躍如たる見事な坐相だと思います。

わたしはこの写真を坐禅堂 の床の間に置いて、自分の坐禅の励みにしています。

しかし、わたしにとっては、 みなさんは意外に思われるかもしれませんが、坐禅のことなど全く知らない赤ちゃんが坐っている写真もまた澤木老師の写真と同じように多くのことを教えてくれますし、こういうふうに坐りたいなあという大きな励みを与えてくれるのです。

 

 

実際、この写真のなかには云為の坐禅についてのヒントがたくさん詰まっています。

この赤ちゃんの「作為」のなさに注目してください。

ここには「背中をまっす ぐにしなくちゃ」、「じっとしていなくちゃ」、「いい姿勢で坐っているところを ママに見せてほめてもらおう」、そういった人間的な「力み」やわざとらしい「作りごと」が全くありません。

とてものびのびとしていて楽そうです。

道元禅師の言い方を借りれば、「ちからをもいれず、こころをもつひやさずして」何の努力感もなく坐っています。

それでいながらしっかりと床にグラウンディング(接地)して 上体がすっと立ち上がっています。

これは外側から他律的にからだを固めて無理やりに作った形ではなく、内側から自律的に柔らかく生成してきた象りだからです。

云為そのもので坐っているこの赤ちゃんの写真は、坐禅の実修者が強為的な坐禅に 向かって足を踏み出さないために、坐禅の手本として澤木老師の写真と並べていつ も座右に置いておくべきものではないかと思うのです。

ではこれから、この赤ちゃんの坐り姿から学んだ、云為的な坐禅を坐る工夫についてお話ししていきます。

 

 藤田一照著「現代坐禅講義」(P.402~)より一部抜粋

  

《藤田一照 一口コメント》  

ここで述べている赤ちゃんはN君といい、この写真の時は生後11ヶ月でした。


彼が4歳ぐらいになった時、お母さんが彼を連れて僕の坐禅会にやってきました。

僕はN君とお母さんに写真のお礼を述べた後、N君に向かって「ねえ、N君、今はどんな風に坐っているか見せてくれる?」とお願いしました。

すると彼は、「うん、いいよ」と言って坐り、そして「こう?」と僕の方を向いてききました。

その瞬間、僕はしまったと思いました。