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 【坐禅講義11】第一講:得るところなく、悟るところなし
藤田 一照 藤田 一照
2017/05/19 07:25

【坐禅講義11】第一講:得るところなく、悟るところなし

序講を受けて、これから只管打坐の坐禅についてお話をしていきます。今回の講義は、「坐禅は、所定の目的を達成するために一定のテクニックとかメソッドを学び、それに習熟していくことを目指す営みではない」ということをめぐって、いろいろ語ってみたいと思います。

まず、「無所得無所悟(むしょとくむしょご)」、つまり坐禅は「得るところなく、悟るところなし」で行ずる、ということから話を始めます。わたしとしてはそういうつもりはさらさらないのですが、出鼻をくじくと言うか、やる気をそぐと言うか、最初からみなさんの坐禅への熱意や、意欲、関心に冷水をかけるようなことになるかもしれません。というのはとどのつまり、坐禅はみなさんが抱いているような期待にこたえてくれません、みなさんが願っているような満足を与えてくれません。澤木興道老師の有名な言い方で言うと「坐禅しても何にもならん!」と、身も蓋もないことを言うことになるからです。[註1]

何かにつけ物足りようとしていつも何かを求めているのがわれわれ普通の人間です。それを仏教では「凡夫」とよんでいます。だからこそ、序講で論じたように、くつろぐことができないのです。そういう抜きがたい習性を持つ人間にとっては、無所得無所悟の坐禅は実に物足りない、張り合いのない、手ごたえのないものです。変な言い方ですが、凡夫が物足りないままに物足りている、安心できないままに安心している姿が坐禅なんです。まさにそれこそが坐禅の坐禅たるゆえんであり、素晴らしいところなのです。こんなことは凡夫のわれわれにはなかなか受け入れられないでしょうが、それでもこういう坐禅をこそ、そのまま歪めることなくまっすぐに受けとり、身をもって行じていくことが何よりも大事なことです。このことをあらかじめよく承知してから坐禅に取り組んでいただきたいと思います。

実際に坐禅をしていると必ず、張り合いがないような、物足りないような、そういうなんとも割り切れない、空しい感じが湧いてきます。これだけ熱心にやっているのに、思ったような“反応”が起きないのは、“手ごたえ”がないのは、きっとやり方がどこか間違っているんじゃないか、自分の努力が足りないんじゃないか、自分は坐禅に向いていないんじゃないか……、そういういろいろな疑問が次々に浮かんでくるのです。やっている当人としてはこんな手ごたえのないことをこのままやってていいのだろうか、時間の無駄じゃないのかと途方に暮れるばかりですが、実は坐禅としてはそれでいいのです。それはむしろいい坐禅であることの証です。人間はいかに満足を求めても結局は満足し切ることができないものだ、というのが仏教の見方です。ちなみに、仏教の基本的教義とされている四聖諦の最初の苦諦はしばしば「この世の一切は苦しみである」というふうに理解されていますが、わたしはむしろ「この世では最終的に物足りるということはあり得ない」と解した方が真意に近いのではないかと思っています。

さて、この物足りなさがわれわれを駆りたてている間は、落ち着くことができず、安心してくつろぐこともできません。物足りなさを埋め合わせてくれるような興奮する体験を次から次へと求めるのでもなく、また気晴らしにふけって物足りなさを忘れようとするのでもなく、物足りないところにそのまま落ち着くこと、そこにしか安心はないと決定して物足りなさと一緒に坐り込んでいるのが坐禅なのです。

道元禅師は『正法眼蔵 現成公案』のなかで「身心にまだ法が十分にしみ込んで充ちていないときには、(意識の上では)法がすでに満ちていると思うものだ。しかし、法が本当に身心にしみ込んで充ちているときには、何か自分には一方で欠けているものがあるように思われるのだ」と言っています。つまり、意識としてはどうも物足りないように思いながらもそれはそれとして、真剣に坐禅に取り組んでいるときには、意識以前のところで「法が本当に身心にしみ込んで充ちている」のです。意識の上で物足りなくても坐禅を信じて安心して坐っていればいいわけです。逆にもし、自分が物足りたと思ったときには、坐禅からすべり落ちているなと思った方がいいでしょう。自分の意識のなかの出来事に捉われてそれをつかんでしまって坐禅に隙ができたからです。

「諸仏のまさしく諸仏なるときは、自己は諸仏なりと覚知することをもちゐず。しかあれども証仏なり。仏を証しもてゆく」と『正法眼蔵 現成公案』にあるように、坐禅しているときには自分が成道しているなんて全く思っていなくても、坐禅が坐禅になっていれば自分の思いとは関わりないところでちゃんと成道していて、坐禅の功徳を全て受けとることができています。坐禅は成道を見ることができない。坐禅と成道はそういうおもしろい関係になっているのです。たとえばわれわれが、ぐっすり眠っているときには自分は眠っているとは全く思っていませんが、大丈夫ちゃんと眠っていて(そういう眠っているとかいないとかの思いすらないのが本当に眠っている証拠。もしあったらそれは本当には眠っていないということになります)、睡眠の功徳(たとえば脳を休める、からだを休める、自律神経を休める、細胞を新しくするなど。しかし、われわれにはまだその全てがわかっていないのが現状だそうです。睡眠というのはそれほど深遠なものなのです)を全て受けとることができています。だから、安心してただ眠っていればいい。この点で坐禅と睡眠はよく似たところがあります。坐禅は宗教的に言えば、無明から目覚めることだとされていますが、それを理解するのに睡眠が喩えとしてとても役に立つというのは面白いことです。

[註1] 坐禅して何になるか?――ナンニモナラヌ。――この「ナンニモナラヌ」ということが、耳にたこができて、ほんとにナンニモナラヌことをするようにならなければ、それこそナンニモナラン。櫛谷宗則編『禅に聞け―澤木興道老師の言葉』(大法輪閣)より

藤田一照著「現代坐禅講義」より一部抜粋


《藤田一照 一口コメント》
われわれの日常の意識においては、「自分」というものがコロッとしてあるという前提からすべての経験を整理しています。このコロッとしてあるように思っている自分のことを道元さんは「吾我」と呼んでいます。僕が安泰寺に入山したとき、師匠から「お前と同室になる先輩と、毎晩この本の一節を読んで話し合う時間を持ちなさい」と言われて渡されたのが、岩波文庫版の『正法眼蔵随聞記』でした。僕の師匠のそのまた師匠である内山興正老師も、お勧めの本をお尋ねしたとき、そのリストの中にこの『正法眼蔵随聞記』を書き込みながら、「僕はこの本をもう何冊も読み破ったねえ。何度も繰り返し読むので、本がぼろぼろになって新しい本に代えるのを、僕は『読み破る』って言ってるんだけどね。」とおっしゃっていました。

その言いつけに従って、毎日少しずつ読んでいったのですが、そこで初めて「吾我」という言葉に出会い、『随聞記』の中で繰り返し「吾我を離れる」ということが強調されているのを知りました。この吾我の特徴は、いつでも手応えを欲しているということです。「おれはやってるぞ、どうだ、すごいだろう」感です。われわれは、ともすると、あらゆる局面で「どや顔」をしたいというこの「どや感」で坐禅しがちです。坐禅をする人は、自分がこの「どや感」を満たすためにやっていないか、よくよく振り返ってみる必要があります。「どや感」を餌にしないでも、坐禅ができるでしょうか?聖書にも、「憐れみの施しをする際,あなたの右の手がしていることを左の手に知らせてはなりません。あなたの憐れみの施しがひそかになされるためです。そうすれば,ひそかに見ておられるあなたの父が報いてくださるでしょう。」とか「断食をする時には、偽善者がするように、陰気な顔つきをするな。彼らは断食をしていることを人に見せようとして、自分の顔を見苦しくするのである。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。 あなたがたは断食をする時には、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。それは断食をしていることが人に知れないで、隠れた所においでになるあなたの父に知られるためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いて下さるであろう。というようなことが書いてあります。これもまた吾我の「どや感」の問題に触れたものだと僕は思います。


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