【坐禅講義68】第四講:結果自然成の坐禅
藤田 一照 藤田 一照
2018/06/22 07:03

【坐禅講義68】第四講:結果自然成の坐禅

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【坐禅講義67】第四講:マニュアルにならない坐禅のやり方をどう説くか

 

「坐蒲の上に坐り、脚を結跏趺坐か半跏趺坐に組み......」と始まる坐禅のやり方に関する一連のインストラクション(説明)の内容それ自体には間違いはないのです。

確かに坐禅を外から観察してそれを言葉でレポートしてもらったり、あるいは坐禅をしている本人に「どうやって坐禅をしていますか」と聞いたら、おそらくそのような答えが帰ってくるでしょう。

わたしもそのような坐禅のインストラクションを受け、それがうまくできるように熱心に練習し、上達してある程度まではできるようになり、また機会があればそのようなインストラクションを人にも伝えていました。



しかし、上記のようなエピソードがあったころから、こういうやり方はたとえうまくできたとしても坐禅としてはまずいのではないかと感じ始めたのです。

これではスポーツの訓練や技術の習得と同じではないのか、坐禅として果たしてそれでよいのだろうか、という疑問です。

仏教に「嬰児行」という言葉があります。

菩薩の行いが分別の見解を離れていることを生まれたばかりの赤ん坊の所作に喩えたものです。

分別臭い人間的なクセのついていない無為無作でなされる行のあり方をそう呼んでいるのです。

坐禅もまたそのような嬰児行としてもっと単純素朴におおらかに行じられるべきはずなのに、インストラクションに従って坐っている限り、「こう坐るべきだ」という外側の基準に自分の坐禅があっているかどうかを気にしながら坐るようなひどくちまちましたものにならざるを得ません。



坐禅の指導をすると、「先生、わたしの姿勢はどうでしょうか、背中が曲がっていませんか? 見て悪いところを直してください」とか「視線は四五度下に落とすそうですが、わたしの視線は何度くらいになっているか見てくれませんか」といった要請がしばしば真面目な修行者から寄せられてきます。

最初のころ、わたしはそういう要請にまともに応えて、手で触って背中がまっすぐになるようにしてあげたり、横から見て「この辺を見るとだいたい四五度になりますよ」と指差したりしていましたが、やはりこういう教え方も坐禅にはそぐわないと思うようになりました。

そういう修正はわたしの持っている「いい姿勢」のイメージを基準にしてその人の外形をそのイメージに近づけようとしているだけで、その人自身の身心の納得や合意によったものではありません。

ですから遅かれ早かれ、その修正も空しく背中も視線も元の木阿弥に戻ってしまいます。それにわたしが背中はこういうかたちであるべきだ、視線はここに落とすべきだという「正解」を示してしまうと、その人にとってはそれ以降、背中や視線をその「正解」に合わせて固定する努力をすることが「正しい」坐禅をすることになってしまいます。

言い換えればそれ以外はみん な「誤答」になってしまうということです。



こういう決められた枠の中に身心を押し込め、強制し拘束するような結果になる坐禅の仕方や指導法は、いかにきめ細かくかつ忠実にそれがなされたとしても、そのアプローチ自体が坐禅から遠ざかることになるのではないかと思うようになったのです。

意識としての自分がからだやこころをインストラクションに従って拘束し外から押しつけて作った秩序と、からだやこころを自由にさせて、その自由から自ずと生まれてくる秩序とでは、同じ秩序と言っても全く違うのです。

坐禅は後者のようなアプローチでなされなければならないのではないか?

さもなければ坐禅ではなく「習禅」になってしまう......。



そこで、こういう問題意識を持って、もう一度あらためて道元禅師や瑩山禅師の 著作を読み直すとともに、ヨーガや気功、武術の稽古法、それに野口体操や野口整体といった東洋的行法、アレクサンダー・テクニークやフェルデンクライス・メソ ッド、ロルフィング、ボディマインド・センタリング、イデオキネシス、フランクリ ン・メソッドなどの西洋生まれのボディーワーク、ソマティクスなどの門をたたき、坐禅への別なアプローチの道を探り始めました。

そうした探究の途上で幸いにも出会えた多くの善知識たちの中から五人の方々に対談をお願いして今回、コラム的なかたちでその対談を収録しました。

それを読んでいただければわたしの問題意識の所在がもう少しはっきりわかっていただけると思います。



すでにできあがった理想のあり方を外側から他律的に身心に押しつけるようにして坐禅を作り上げるのではなく、自分にとってはまだ未知の正身端坐のあり方を内側から自律的に身心に問いかけ聴き取りながら探究していくプロセスになるような坐禅のやり方はないのか。

身心を鋳型にはめ込むような坐禅のやり方ではなく、身心が本来の力を発揮できる自由を保障し、その発露として内側から花開いてくるようにして生まれる坐禅はどのようにすれば可能になるのだろうか。

「ちからをもいれず、こころをもつひやさず」にしていたら「ほとけのかたよりおこなわれて」自然に成立するような坐禅、つまり結果自然成の坐禅はどういうやり方で行なうのだろう......。

わたしは現在も依然その探究の途上にいますので、これから述べる坐禅 のやり方の説明が本当に結果自然成の坐禅にふさわしいものになっているかどうか ということについては、今後いろいろ検討、改善の余地があります。

自分でもこの 先、これがどう進展していくか、それを楽しみにしているところです。

ですから、現時点においてはわたしはこのように坐禅を行じ、また指導していますということを紹介させていただくだけですので、くれぐれもこれが最終バージョン、完成版、決定版というふうには受けとらないで下さい。

あくまでも一つの試案という程度のものですので、みなさんが坐禅に取り組まれるときの参考にしていただければと思います。 

 藤田一照著「現代坐禅講義」(P.**~)より一部抜粋

  

《藤田一照 一口コメント》  

 「結果自然成(けっかじねんじょう)」というのは、かつてNHKEテレ「こころの時代」に登場した時に、そのタイトルとして使った表現です。


自分があれこれ計らってやるのではなく、自然が主役になって、その結果として坐禅が成立するというような意味合いで使いました。

いまもこの方向で、坐禅の参究を続けていますが、なんでも自我意識としての自分が、頑張って成し遂げようとする傾向の強い私には、遅々たる歩みです。

坐禅の世界で、僕が明らかにしたいと思っている意識のコントロール主導でないあり方とは、

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