【坐禅講義67】第四講:マニュアルにならない坐禅のやり方をどう説くか
藤田 一照 藤田 一照
2018/06/15 07:05

【坐禅講義67】第四講:マニュアルにならない坐禅のやり方をどう説くか

(前の記事)
【坐禅講義66】第四講: 強為から云為へのパラダイム・シフト

 

坐禅の実際のやり方を話すはずの講義が、どうも第一講から語ってきたことをまた繰り返すような話になってきました。

それは、坐禅がどのようなものであるか、あるいはどのようなものでないかをある程度はっきりわかっていただくことが何より大事だと思っているからです。

ここで、ある程度とわざわざ言ったのは、幽邃な坐禅を完全にわかるということはないからです。

思いでは思えず、言葉では言えないことを生身のからだでやっている坐禅を理屈でわかるということはないからです。

坐禅とは何かという問いには、自己の全体を挙げて坐禅を実際に行じることで応えるしかありません。

しかしそれと同時に、八正道(八つの正しい生き方)もまずは正見(正しい理解)から始まっているように、坐禅を正しく理解することを抜きにしては正しい坐禅の実践が始まらないこともまた確かです。

というわけで、もう少し話を続けます。

坐禅のやり方について話すということが一筋縄ではいかない問題を孕んでいるというのが坐禅の坐禅たる所以でもあります。

 

その大きな理由は、坐禅がそもそもメソッドやテクニックとは性格を異にしているからです。

メソッドやテクニックならば、最初にこうしなさい、次はこう、それから......、という具合にやるべきことを一連の手続きとして細かく具体的に規定し、それらを上手に配列してマニュアルを作ることができます。

しかし、意識としての自分が坐禅のマニュアルに従ってからだやこころを操作してその通りに「やって」しまっては坐禅が坐禅にならないということはこれまでの講義で繰り返し言ってきたことです。

早い話、そういう坐禅の仕方では作為、造作で坐禅をすることになってしまうからです。

突き詰めていうならば、どうやって坐禅が坐禅になるように坐るかということを誰も明確な言葉で厳密にあなたに示すことはできないと言った方がいいのです。

そういうことをしようとしたら坐禅にとって大事なものが損なわれてしまいます。

 

自分の行じる坐禅は自分で、何をすべきか(そのほとんどは実は何をやめるべきかなのですが)、どう取り組むべきか、を自得するしかないのです。

坐禅は、からだや息やこころをうまく操ってインストラクション通りにそつなく坐るテクニックやメソッドを身につけることとは全く性格を異にしています。

そういう方向とは逆に、テクニックやメソッドを手放して素手、空手になって、身心の自然の働きに一切を任せていくという方向で坐ることなのです。

ですから坐禅では「どうやるか」を説明することは危ない橋を渡ることになります。

もっとも、わたしはあえてその橋を渡ろうとしているわけですが......。 

 

このことに関連して思い出すことがあります。

アメリカで或るとき、初心者ばかりの集まり(ほとんどが四十代の男女二十名くらい)で坐禅の指導をする機会がありました。

そのときのわたしは、まだ強為と云為という問題を自覚していませんでしたから、普通に行なわれているような仕方で坐禅のやり方を説明しました。

つまり、「坐蒲の上に坐り、脚を結跏趺坐か半跏趺坐のかたちに組んで、背筋を伸ば し、手をいわゆる法界定印(右の掌の上に左の掌を重ねて置き、親指の先端同士がそっと触れあうようにして、親指と人差し指が美しい対称の楕円形になるようにする。

このように組んだ両手を小指側が下腹につくようにして、もっとも置き心地の良いところにおさめる)のかたちにし、顎を引いて、眼を半眼にして、鼻から自然な息をし、浮かんでくる思いを手放し続け、居眠りや考えごとで姿勢が崩れたのに気がついたら、すぐに姿勢を正す。

崩れたら正しい姿勢に戻るということを辛抱強く繰り返す」ということを、実際に自分のからだを動かしてデモンストレーションしながら、英語で解説したのです。

実際はもう少し細かいことを言いましたが、大略このぐらいのことを言えば坐禅らしいかたちにはもっていけるのです。

これぐらいのことならせいぜい十分もあれば説明できてしまいます。

坐禅会で初心者に坐禅を指導するときに説明することや坐禅の解説本に書いてあることも煎じ詰めれば、 結局これくらいの内容におさまるでしょう。

わたしの言葉や身振りだけでは十分理解できない人には直接手で触れてわかってもらうようにして、参加者のみなさんがだいたい要領を飲み込めたのを見計らって、実際に三十分坐ってもらいました。 

 

止静鐘(坐禅の始まりを告げる鐘 通常は三声鳴らす)が鳴っている十数秒間はみんなその音をシーンと聞いていたのですが(わたしが持参したその鐘の音は確かに素敵でしたし、たぶん仏教の鐘の音を聞くのは初めてだったのでみんな思わず聞きほれたのでしょう)、鳴り終わるやいなやみんながいっせいに坐禅を「しよう」と身構える気配が感じられ、そのあとはずっと、わたしの言った指示通りに課題を遂行しようと努力する自分とそれに従おうとしないこころやからだとの間の熾烈な(?)闘いが繰り広げられている様子が見てとれました。

初めに決めていた三十分が経過し開静鐘(坐禅の終わりを告げる鐘 通常は二声鳴らす)を鳴らすと、あちこちから「ハァー」、「フー」という安堵のため息が漏れました。 

 

そのあと、感想を述べてもらう時間を持ったのですが、案の定「組んでいる脚が痛くて気が狂いそうだったが、みんながじっと坐っているので何とか我慢した」、「いろんな考えが次から次に湧いてきて、知らないうちにずーっとあることを考え続けてしまった」、「どういうわけか、眠くて眠くてしかたがなかった。

倒れてしまわないようにするので手一杯だった」、「最初から最後まで不快感との戦いだった」というようなことをみんなが口にしました。

そして異口同音に「坐禅は難しい」と言うのです。

それを聞いていてわたしは自分の指導の仕方が悪かったせいだと内心落ち込みました。

もっとも、「みんな初めてだから仕方がないさ。だんだん慣れてくればそういうこともなくなるよ」とわたしを慰めてくれるようなコメントを言う人もけっこういたのですが......。

その集まりの締めくくりのときにわたしは こういう感想をふと漏らしたのです。

「みなさんは坐禅というのはきつくて難しいものだという印象を持たれたようですが、こういう坐禅を日本に伝えた道元禅師という方は『坐禅は安楽の法門である』と言ってるんですよ(ここでみんな笑う)。

いやこれはジョークではなくて本当にそう言ってるんです。

もしこれを文字通りに受けとると、みなさんが坐っていたきつい、苦しい、痛い坐禅は坐禅じゃないこと になりますね(またみんな笑う)。

でもわたしは今日みなさんが安楽だった瞬間は 確かにあったように思うんです。

始まりの鐘がなって『ああー、きれいな音だなあ』と思わず聞きほれていた最初の十数秒間と終わりの鐘が鳴った直後の「フゥー、やっと終わったー」とホッとしたときです(みんな大笑い)。

それは『言われた通りの坐禅をしなきゃ』ということをうっかり忘れたり、『もう坐禅しなくていい』と坐禅から解放されたときですよね。

つまり『坐禅をしなければ』ということが全く念頭にないとき、安楽の法門としての坐禅がそこに一瞬ですが確かに現われたわけです。

わたしとしては鐘が鳴った直後だけでなくそのあいだもそういう瞬間が三十分ずーっと続いてほしかったのですけどね。

でも初心者のみなさんでも、安楽の坐禅がちゃんとできていた瞬間があったということは覚えておいて欲しいんです。

思うに、みなさんが初心者だったからそれが余計にはっきりとしたかたちで示されたんです。

ですから、これは慣れないからできないとか慣れたらできるとかというような慣れの問題ではないと思うんです。

今のわたしにはうまく言えないのですが、もっと別な、もっと大事な、坐禅にとって本質的なことがそこにはあるような気がします。

そのことに気づかせてくれたみなさんとの出会いに感謝します......」と。 

 藤田一照著「現代坐禅講義」(P.383~)より一部抜粋

 

《藤田一照 一口コメント》 

坐禅は、意志の力であまり「オレが」やろう、やろうとすると、かえって遠ざかってしまうというところがあります。かと言って、やる気が必要ではないということでもありません。

その辺の綾(あや)がなかなか難しいところです。

気負わずに、ただ素直にやればいいわけですが、その「ただ」がどういうわけかできない。

「ただ」では済まずに、そこに余計なものがいろいろとまとわりついてしまうのです。

この余計なものの存在に気がつくというのがまず只管打坐の第一歩かもしれません。

浄土真宗でいう「はからい」というやつです。

自分でもすぐに気がつく粗いはからいから、なかなか気づくことができない微細なはからいまで、いろいろあって一筋縄でいかないのです。

浄土真宗はそれをすごく重要視している伝統ですから、禅の人もそれを学ぶべきだと思います。

僕はアメリカでもそういうことを言っていましたが、なかなかわかってもらえませんでした。

向こうでお世話になった仏教学の教授で浄土真宗の僧籍もある方からは、「一照さんは隠れ真宗門徒だね」とよく言われていました。

「ただとは、はからいなきをいう」われわれにとっての、取り組むべき公案です。

 

藤田一照著「現代坐禅講義」(P.379〜)より一部抜粋

 

《藤田一照 一口コメント》  

坐禅は、意志の力であまり「オレが」やろう、やろうとすると、かえって遠ざかってしまうというところがあります。

かと言って、やる気が必要ではないということでもありません。

その辺の綾(あや)がなかなか難しいところです。

気負わずに、ただ素直にやればいいわけですが、

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