(前の記事)
【坐禅講義64】第三講: 生き生きとした自己と世界

 

今回が『現代坐禅講義』の最終の講義となります。

ここでは、これまでずっとお話ししてきたようなあり方をした坐禅をいったいどのようにして実践するかということについてお話ししたいと思います。

これまでの四回の講義は、普通一般に理解されている、「坐禅とはこういうものだろう」という通俗的イメージを打ち破るような話し方で進めてきました。

ここで、もう一回あらためて整理してみましょう。



第一回目の講義では「坐禅というのはこころの平安とか精神統一、あるいは悟りといったその他もろもろのまだここに存在していない(と本人が思っている)何かを目的として設定し、それを達成するために行なうものだ」という通俗的イメージに対して、無所得無所悟(得るところなく悟るところなし)の態度で、ただ坐禅をするために坐禅するのが坐禅だということをお話ししました。

第二回目の講義では「坐禅というのはからだを坐らせておいて、そのあいだにいろいろな方法にしたがって、こころをある望ましい状態に変えることだ」という通俗的イメージに対して、坐禅は身心一如で正身端坐することだということをお話ししました。

第三回目の講義では「坐禅は他の一切から孤絶して自分の内面の問題に向かうことだ」という通俗的イメージに対して、坐禅は尽一切の全てと通い合って行なわれている開かれたものだということをお話ししました。

第四回目の講義では「坐禅は不動でなければならないから、からだやこころに動きがあってはいけない」という通俗的イメージに対して、坐禅は活潑潑地の生き生きとしたものでなければならず、そこには生命活動の現われとして微細な運動やこころの活動が起きているということをお話ししました。



第一講から第四講にわたって話したことをまとめると、坐禅は次のような姿をしたものだということになります。

「坐禅とは、無所得無所悟でひたすら正身端坐に努めることである。

そのようにしてなされている坐禅は、当人の覚知を越えて尽一切と通い合っており、活潑潑地の生命活動が様々なかたちで生き生きと表われている」。

このような坐禅を実際に行なうためには、それにふさわしい坐禅の仕方が参究され工夫されなければなりません。

そのためには何よりもまず、既得の通俗的な坐禅のイメージをアタマから徹底的に払拭することから始める必要があります。

坐禅を通俗的イメージのように理解している限り、どうしてもそのような理解に基づいた坐禅をしてしまいますから、新鮮な取り組み方をすることができないのです。

これまでの生き方、考え方の枠の中や延長線上で坐禅を理解し行なうのではなく、全く新しい方向へこれまでしたことがなかったような仕方で初めの一歩を踏み出すこと、これは坐禅に限らず仏教や禅の学び一般に関しても言えるとても大切なことです。



英語でunlearnという言葉があります。

動詞の前についたunはこの場合は否定で はなくて、「逆の行為、状態にすること、除去、奪取、解放などの意を表す」接頭語です。

手元の辞書では「unlearn 学んだことを意図的に念頭から去らせること」 となっていますが、この言葉に対して鶴見俊輔氏が「学びほぐす」という見事な訳語をつけています。

鶴見氏はハーヴァード大学の学生だったころへレン・ケラーに会う機会がありました。

そのとき鶴見氏が、「わたしはハーヴァード大学の三年生です」と言ったら、ヘレン・ケラーは「わたしはその隣のラドクリフという大学で とてもたくさんのことを学んだ。

だが、そのたくさんのことを unlearnしなくてはならなかった」と語ったそうです。

この言葉を聞いて鶴見氏は「アンラーンということばは初めて聞いたが、意味はわかった。

型通りにセーターを編み、ほどいて元の毛糸に戻して自分の体に合わせて編みなおすという情景が想像された」と書いています。

またこの「unlearn 学びほぐす」ということに関連して作家の大江健三郎氏は「unteach 既得の知識(習慣)を忘れさせる、(正しいとされていること を)正しくないと教える」という言葉を紹介しています。

「学びほぐす」という訳語にならって言うなら「教えほぐす」という訳語になるでしょうか。

こういう意味でのunlearnやunteachということが坐禅に関して今行なわれなければならないと思います。

すでに確立された疑いの余地のない完成された坐禅のやり方を学んでそれに習熟していくというのではない、坐禅のunlearn、学びほぐし。

そして、この通りやるのが坐禅だというかたちで出来合いのやり方をマニュアルとし て与えてそれを上手にできるように指導するのではない、坐禅のunteach、教えほぐし、です。

坐禅を人間的な技術、方法として学び教えてきたわれわれには、「型通りに編んだセーターをほどいて元の毛糸に戻して、自分の体に合わせて編みなおす」という「ほぐす」作業が必要なのです。



道元禅師は「坐禅は三界の法にあらず、仏祖の法なり」(『正法眼蔵 道心』) と言われています。

これは坐禅というものが、「三界(欲界・色界・無色界)」、つまりわれわれ人間の生活的地盤で行なわれるものではなく、人間的営みが一切棚上げされ乗り越えられたところ、「仏祖」つまり、大自然の地盤でなされなければならない、ということです。

普段の自分の活動の延長線上で坐禅を考え、またその延長線上で坐禅をやったのでは、坐禅ではなく「習禅」になってしまいます。

この転換、切り替え、をどのようにして確保し実現するかということが、坐禅を行ずる上で一番大事なことなのです。

それは、「坐禅は人間界にあるべき事ならず。坐禅のときは、坐禅の我にてこそあれ、日来の我にてはなき也」と言われているように 「日来の我(普段のわれわれの身心)」ではない、「坐禅の我(坐禅にふさわしい身心)」で坐ることができるような確かな道筋をつけることです。

普段のわれわれは「自分をなんとかましなものにしよう」といつも吾我から出発して自分が何を得られるかを見ていますが、坐禅は「自分一人くらいどうでもいいじゃないか」と吾我を投げ出すことによって働き出すものを見ようとしています。

このように人間界にあるはずのない坐禅ができるということが人間にとって最高の恵みだという教えがそこにはあるのです。

そういう坐禅を間違いのないように行じ なければその恵みを受けとることができません。

坐禅というものがおおよそどういうものなのか、どういう方向性、ねらいを持って坐らなければならないか、をまず知的に理解し、ある程度納得しておかないと、それにきちんと沿った方向で坐禅を実践することはできません。

そういうわけで講義を四回費やして、常識的な理解とはおよそ正反対に違っている坐禅の姿を描き出そうとしたのでした。

その理解は理解してそこで終わりというのではなく、直接に実践へと促しまたその実践を正しく導くような理解でなければなりません。

常日頃吾我を中心に感じ、考え、行動しているわれわれ凡夫がそのまま吾我のパラダイムで坐禅を実践すれば、それは吾我が坐禅をしているのですから、仏の行としての坐禅にはなりません。

吾我の坐禅をしていればそのうち仏行としての坐禅になっていくだろうという将来をあて込んだ考えは坐禅の立場ではありません。

仏の行であるという性質は坐禅の結果としていつか将来獲得されるというものではなく、今する坐禅の前提として既にそこになければならないものなのです。

それが抜き差しならない今ここの自己を問題にする禅の立場ですし、諸行無常、一寸先は闇という現実をごまかさずに生きようとする仏教の態度だからです。

藤田一照著「現代坐禅講義」(P.374〜)より一部抜粋

 

《藤田一照 一口コメント》  

『現代坐禅講義』を書いたときに僕が目論んでいたのは、正しい坐禅の姿を描くこととその正しい実践法の筋道を明らかにすることでした。

この二つのことは切り離せません。

正しいヴィジョンとそのヴィジョンを実現する正しい方法を坐禅に関して明らかにしたいというのが、当時の私の願いでした。

そのためには