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【坐禅講義63】第三講: こころの動き

 

今回の講義では活潑潑地の坐禅というテーマで、坐禅は生命が生き生きと躍動しているとても豊かな内実を持ったものであるということ、からだとこころの面でそれがどのような具体的形で現われているかということをお話ししてきました。

それは、坐禅がただじっと坐っているだけで無内容なもののように考えられていることが多いからです。

よく人から「何もしないで壁に向かってじーっと坐っているなんてさぞかし退屈でしょうね」と感心(?)されることがありますが、そういう質問をする人はきっと坐禅を波も風も立たないシーンとした凪のような状態だと思っているのでしょうね。

また坐禅をする人の中にも、なるべく何も起こらないように坐らなければならないと思って、からだもこころも自由に動けないように拘束、制約することが坐禅であるかのように坐っている人がいます。

つまり、からだを動かさないように、念も想も浮かんでこさせないように、という努力をするのです。

しかし実はそうではない、坐禅はまさにその逆だということを言いたかったのです。

からだをピクリとも動かさずに長時間坐り続けるとか坐禅中に思いを一つも浮かばせないとか、そういういかにも特別で不自然なこと、普通の人にはとうていできそうもないことをするのが坐禅だというなら、それは一種の芸当であって、万人に開かれた宗教としての坐禅ではありません。

坐禅は生命が生き生き、そしてのびのびと発現する当たり前で自然なものでなければならないということです。

われわれがこうして生きている、そのいのちの当たり前のありようを今ここで実物として表現するのが坐禅だからです。

たとえば、二本の足で歩くのは当たり前のことですから誰も注目しませんが、逆立ちして歩けば「おお、すごい!」と注目されます。

坐禅というのは二本の足で歩くような当たり前のことを当たり前にやることですから、特殊なことが大好きなわれわれにはあまりにも平凡で無味乾燥で退屈に見えてしまうのです。

だからわざわざ逆立ちして歩くような余計なことを始めて、味つけ、色づけして派手な芸当にしてしまうのです。



坐禅は確かにどこまでも無色透明で平凡地味なものでなければなりませんが、それはそこに何も起きていない、中身のない無内容なものだということではありません。

実はとても豊かな内容を持っているのです。

「マジック・アイ」の絵を普通の眼で見ていれば、退屈な二次元のパターンしか見えてこないのですぐ飽きてしまいますが、マジック・アイになって同じ絵を見れば、そこに興味深くわくわくするような三次元の絵が見えてきます。

それと同じように、坐禅して自分の六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)を全てマジック・アイ的にしていると(それが坐禅で実現していることです)、そこに「自己のいのちの当たり前のありよう」がいろいろなかたちで映り込んでくるのです。

その様子は無味乾燥、無内容どころか絢爛豪華、興味津々、内容豊富というべきものです。

吾我の持ち出し、出張りをやめて自分をふっと消したような状態、自分がまるでこの世にいないかのような状態に近づけば近づくほど、不思議なことに、何もないと思っていたところにおどろくほど豊かなものが息づいていたことがわかってうきうきしてくるのです。

「これを見逃す手はない、そんなことはもったいない」という思いが自然に湧いてきます。

考えごとや居眠りをすればそれを見失うことになりますから、考えごとや居眠りをしないように無理をして努力するまでもなく、もっと坐禅に深まっていきたいというより強い動機と促しによって、居眠りや考え事も自ずから起こらなくなってくるのです。

この講義では、坐禅によって自ずから見えてくる豊かな生命の息づきの例として呼吸による全身の脈動、体軸のゆらぎ、頭蓋仙骨律動、様々な気分や思いの湧出などに触れました。

それらはいわば坐禅の内部で感じられる躍動感でした。

ここで、講義の最後になりましたが、身心がそのように生き生きと坐禅しているとき、外の世界もまた同じように生き生きと躍動感にあふれたものとして体験されるということに一言触れておかなければなりません。

普段はからだをせわしなく動かし、こころも様々な思い煩い、空想、計画、回想などで占められていますが、坐禅をすることでからだを鎮め、ほぐし、落ち着かせ、こころの中でにぎり込んでいるものを全て手放してみると、今ここで周囲の世界から与えられている豊かな感覚に気づきます。

遠くから、また近くから耳に届いてくる様々な音。

ソフトに開いた眼に入って くる光、影、色。鼻孔に漂ってくる線香や部屋のほんのりとした香り。

自分を取り巻く空気の温かさや湿り気。

自分を下から支えている床の頼もしさ......。

こうしたからだの外からやってくる感覚はばらばらにではなく一つにまとまり融け合ってそのときそのときの世界の表情として体験されています。

しかもそれは刻々に変化して留まることを知りません。

こうして坐禅の内部でも外部でも千変万化の相を豊かに現わしながら、諸行が無常しています。

そこには変化しないものなど一つもありません。

「こころが静まれば静まるほど、生きているということは眼がくらむような激流であることがますますはっきりと触知できるようになる」(スティーブン・ バチェラー『ダルマの実践』)のです。



今、内部とか外部とか言いましたがこれは便宜的にそう言っただけで、実際には、内と外は一枚にぶっ続いています。

実際にはどこにも境界線を引くことができません。

自分の体軸を揺るがせている力と、眼の前の木の葉をそよがせている力は同じ一つの大自然の生命力であると受けとるのが坐禅の立場です。

内にも外にもありありと現われているこうした「おんいのち」 の働きを、自分の都合で手を加えず、そのままぞんぶんに受けとっている姿が坐禅だと言えます。

こういう坐禅に親しんでいると、こころの中=意識=有情と、こころの外=世界=無情という常識的な構図がいかにも怪しいものに感じられるようになります。

そして、哲学者の大森荘蔵氏が主張するように「世界は感情的なのであり、天地有情なのである。其の天地に地続きの我々人間も又、其の微小な前景として、其の有情に参加する。それが我々が『心の中』にしまい込まれていると思い込んでいる感情に他ならない」(『大森荘蔵コレクション』 平凡社ライブラリー)と思えてくるのです。

大森氏はこの考えに立って「我々は安心して生まれついたままの自分に戻れば良いのだ。其処では、世界と私は地続きに直接に接続し、間を阻むものはない。梵我一如、天地人一体、の単純明快さに戻りさえすれば良いのだ。だから人であれば、誰でもできることで、たかだか一年も多少の練習をしさえすれば良い」と 勧めています。

わたしにはこれがそのまま坐禅の勧めに聞こえてしまうのですが、みなさんはどうでしょうか。

ではこれで今回の講義を終わります。

一応これで理論的な話を終了し、次回の講義では坐禅の実践の仕方についてお話ししようと思います。

藤田一照著「現代坐禅講義」(P.326〜)より一部抜粋

 

《藤田一照 一口コメント》  

今回の引用箇所にはもうこれ以上コメントをつける必要を感じない。

自分で言うのもなんだが、坐禅の特質を非常にコンパクトにかけていると今でも思う。

この『現代坐禅講義』シリーズのなかでもよく言及する